ダメなわたしがダメだと思う人ってどうよ?

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 気持ちがくさくさしている。イライラしている。わたしのこのブログに批判的なコメントが寄せられてそのことで頭にきているのだ。
 言葉。それは諸刃の剣のようなもので、あたたかい言葉は人を幸せにするけれど、反対に冷たかったり攻撃的な言葉は人を不幸にする。あたためて癒すか、希望を与えるか、それとも傷つけて相手を打ちのめすか。だからこそ、言葉というものは気を付けて用いなければならない。人を傷付けてしまうことがないように、と。
 わたしは最初その記事に寄せられた記事を読んだ時、本当に頭に来て「うるせー。」と書いてコメントを送信しようとした。でも、ちょっと立ち止まってみた。ここで「うるせー」と言ってしまったら相手と同じ土俵に立って、同じレベルに堕ちてしまわないだろうかと考えた。
 言い合い。喧嘩。争い。それらは同じ土俵にお互いが立たなければできない。どちらか片方がその綱引きの綱を引っ張るのをやめれば、そうした喧嘩とか争いなどにはならない。しかし、それにしても頭に来た。よくあそこまで口汚くののしることができるものだといわばあっけに取られてもおかしくないくらいに、わたしのことを見下し攻撃している。もし、あの文章を日本中の無職の働いていない人たちに読んでもらったら襲撃されてもおかしくないレベルの、そんな文章だと思う。
 わたしは考える。働かないということは悪いことなのだろうか、と。詰まるところ、今回の話は煎じ詰めればそこにたどり着く。わたしは働けない人間、ということになっている。だから、障害年金だって支給されているのだし、そのことが公に認められているのだ。でも、頑張れば、本当に死に物狂いで頑張れば働けないこともないような気がする。体調を崩して無理をして、それでも我慢して何が何でも働かなければならないからと働けばできないことはない。でも、それが果たして一番いい形なのだろうか、とわたしは思ってしまう。無理して無理を押して働く。
 なぜ働くか? 働かなければならないことになっているから。働かない人間は怠け者なのであって良くないから。道徳的にも毎日汗水たらして働くべきだ。それをやらないやつはどうしようもない奴でダメな奴だ。働かざる者食うべからず、という聖書の言葉もつまりはそういうことだ。
 その批判コメント(と言うよりは誹謗中傷だと思う)を寄せてきた人物は働くことをとにかく何事よりも上に置く。そして、そのことを聖書と結びつけてくる。
 彼はわたしに働け、と言う。働くことは素晴らしいことだと力説する。でも、果たして彼に莫大なお金が飛び込んできたらそれでも今の仕事を続けるのだろうか。ぜひとも彼に聞いてみたいところだ。それと彼はわたしを攻撃するけれど、こういう人たちのことはどう思うのだろうか。親の莫大な財産を相続してそれで生活していけるため働いていない金持ち。株式や投資などで一攫千金してそれで生活していけるので働いていない人。働けるのに働かず生活保護を受けている人。働けるのに働かず年金をもらって生活している高齢者。みんな、働けるのに働いていない人たち。彼らに働けと言ってしまっていいのだろうか。
 もしも生産性が第一であって、国に税金をどれだけ納めているかで人間の価値が決まるのだとしたら多くの人たちは必要ないということになってしまうと思う。わたしを批判してきた人だって国に税金を納めて貢献しているものの、金持ちたちや大企業が納めている税金から見たら微々たるものでしかない。そういう人はいらないよ。生きる価値なし。そんなことを言う世の中になったら、優秀で国に貢献できる人だけが生きていればいいことになる。一部のエリートだけが生きていればそれで事足りる。劣った人間なんて必要ない。あえて必要だとすれば奴隷か何かみたいに自分たちが面倒なことをやらせるためくらい。安いお金でこき使う。またはただ働きさせる。それも自分たちがやりたくないことや危険なことだったりを。そして、要らなくなったら容赦なく使い捨て。現代のグローバル化したこの世界も簡単に言ってしまえば、そういうことなのだと思う。
 彼がもしも働けるのに働かない人を責め立てるのだとしたら、ぜひともその心意気を忘れないようにしてもらいたいものだ。彼がどんな仕事をしているのかわたしは知らない。もしかしたら高給取りなのかもしれない。でもそんなことはどうだっていい。
 この世界に働けるのに働いていない、彼の考えによれば怠け者は何人くらいいるのだろう。そんなおびただしい数の怠け者たちを彼は敵に回したわけだ。本当、度胸がある人間だと思う。
 わたしはそういった働かなくてもやれている人たちが幸せな人たちではないかと思う。労働というものは自分の時間の切り売りであって、いわば命を削り出してそれをお金にしているのだ。だから、自分の命を削らずに悠々自適な生活ができる、というのが一番の理想的な形ではないかと思う。だからこそ、だからこそ彼は憤り、わたしを攻撃するのだろう。自分はこんなにも自分の命を削ってそれをお金にして生活しているのに、お前は何も削っていないのにお金をもらって生活している、と。だから、怒りとしては分かる。というか、もっともだ。でも、これはシステム的な問題だとわたしは思うのだ。働かなくてもすべての人が暮らせるようにした上でさらにそれにプラスしていい暮らしがしたい人は働くという選択肢があって選べる。そういうのがいいと思う。でなかったら、生きるためだけに自分をここまですり減らすということになってしまう。それって考えてみればおかしなことだと思う。ただで何もお金を必要とせずに生きることができるというあり方が一番ではないかと。何も新しいことを言っているわけではなくて、生きるということは本来ただでできなければならないはず。働かなくても最低限のお金が保障されるそんな社会になっていってほしいものだと思う。
 怒りが消えてきた。おさまってきた。良かった。
 が、少なくとも厚揚げメンタル(豆腐からワンランクアップしたものの大して変わらない?)の精神障害のある人間にからんできて、どうのこうのと批判的なことを言うっていうのはやめたほうがいいですね。優しくないですよ。その人間性疑われますよ? ってもう疑ってますけど。そして、こんな貧乏で無職のダメ人間の星に憐れまれている。「神様、お救いください」ってわたしに執りなしの祈りをされている。もうこうなったら怖いものはないでしょう。さっすが~。最強。で、そんなダメな彼を神様が救ってくださる。で、いいんじゃないですか。ダメな人間にダメだって言われているんだからよっぽどダメなんでしょう。でも、ダメであればあるほど救いは光り輝く。神様、お救いくださいませ。ダメなわたしと彼を。

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