洗礼式を終えて。2018年12月23日、私は洗礼を受けクリスチャンになった。

キリスト教エッセイ
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 本日、私は洗礼を受けてクリスチャンになった。その喜びの報告をしたい。
 今日の朝を迎えるまでの話。
 朝まで熟睡できなかった。夜中に4回くらい目が覚めた。一応、それからその度に寝ることはできたのだが。
 昨日は2時間くらい新約聖書のマタイによる福音書をmp3で聖書本文を見ながら聞いていた。その甲斐あってか、気持ちとしても万全の態勢で洗礼式に臨むことができた。聖書を聞くだけだとしても2時間というのはさすがに疲れたが、気持ちがキリスト教モードへと切り替わったから自分自身、とても良かったと思う。
 二週間前、同居していた母が祖父母との関係で耐えられなくなり、家を出て近くのアパートで独り暮らしを始めた。その母が私の洗礼式のために、今の祖父母と私が暮らしている家へ泊りに来てくれた。母は私の洗礼式に出席してくれた。
 午前10時。
 出がけの20分間、気持ちを集中させるために、mp3でルカによる福音書の一番終りを聞いた。これで準備が整った。
いつも教会へはジャージで行っていたスポーツマンではないのに、スポーティーな私が、今日は洗礼を受けるということで、スーツでビシっとキメた、いつもとは異なる出で立ちで教会へと向かった。礼拝が始まるのは1時間後だが、早い分には問題ない。
母と一緒に教会へ行き、1番乗りをした、と思ったら先に来ている人がいた。牧師が言うには時間がわからないから早めに来たらしい。そして、私たちの知り合いとのこと。
礼拝堂の後ろ姿を見て、10年来お世話になっている精神保健福祉士のRさんだと分かった。それから、母とRさんと私の3人で話をした。信徒のTさんとEさんも祝福の言葉を私に掛けてくれた。信仰の話をしたと思う。
 そして、10時30分から洗礼式のリハーサルを牧師と一緒に行った。
「吃音でどもったり言葉が出なくなったりしたらどうしましょうか?」と牧師に聞くと、「大丈夫ですよ。心配いりませんよ。」とのこと。不安は解消されなかったが、式のイメージをつかむことができて、漠然とした不安は幾分か和らいだ。
 リハーサルが終わってから、信徒の皆さんからひっきりなしに祝福の言葉を受けた。あぁ、自分は本当に洗礼を受けるんだなと、自分の置かれた立場を再認識し、何が何でも洗礼式を無事に完了しなくては、と思った。と同時に、少し礼拝が始まるまでに時間があったので、祈った。「神様、今まさに私は洗礼式を迎えています。どうか、洗礼式を無事に終えられますように。全ては御心のままに。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」たしかこんなことをお祈りした。そして、礼拝が始まった。
 礼拝の式は滞りなく進んでいった。
 説教、信仰告白、その次に洗礼式という順序だった。
説教が終わったあたりから、うまく私は洗礼式で信仰告白できるだろうか・・・、と手に汗握り始めていた。
 そして、洗礼式を始めるから前に来るように皆の前で牧師に呼ばれた。
 いよいよ、自分の出番だ、と緊張はマックスに。その時には、どもったらどうしようではなく、いよいよこの時が来たのだ、と自分を奮い立たせていた。
私に割り当てられた洗礼式での信仰告白の応答のセリフは、「はい、しりぞけます。」、「はい、信じます。」を3回、「はい、神の助けによって。」の計5つ。とはいえ、セリフではない。立派な信仰告白だ。重い神と会衆の前での誓いだ。本当は全ての牧師からの質問に、質問の意味を理解した上で答えるべきところだったのが、2つくらい反射的にセリフを言うような形になってしまった。その点は反省している。が、質問は事前に読んでいる。そして、すべてに同意できると思ったので、本番で舞い上がってしまったものの、神様は私がただセリフを棒読みしたわけではないと、しっかりわかっていてくださるだろうから、私自身何ら洗礼式での応答を後悔していない。
不思議なことに何もどもらなかった。すらすら言えた。つっかかることもなかった。最後の5つ目の信仰告白をしたとき、まだ終わってはいなかったが、「成し遂げた」というような達成感があった。
信仰告白を終えると、洗礼式の一番メインの水を頭にかける洗礼に移っていった。父と、子と、聖霊の計3回、水を頭にかけた。結構しっかり水をかけたようだったので、背広の肩にも少し水がかかった。水を掛けるたびにしっかりと牧師は頭の上に手を乗せる。水を掛け終わったとき、牧師と私の二人で「アーメン」と言った。
それからすぐタオルを牧師が私に差し出してくれ、それで頭を拭くと、牧師は私の頭の上に手を置き祝福した。少し記憶が曖昧なところもあるが、確かこんな感じだったと思う。
 その後、たしかお祈りをしたと思う。
 そういう風にして洗礼式は何の支障もなく、無事に終えることができた。終わったとき、本当に晴れ晴れとしたすがすがしい気分だった。
主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時には、鳩のような聖霊が見えたと聖書にはあるが、私の洗礼では鳩も何も見えなかった。けれど、何か心の底から充足されるような深い満たされるような不思議な感覚があった。喜びと形容してもいいかもしれない。深い包まれるような充足感。うまく言葉では言い表せないが、強いて言葉にするならこのようだった。
 クリスマス礼拝ということで、聖餐式もあり、そこで私は初めての聖餐に与ることができた。目の前をスル―していくだけだったあの聖餐をこの自分が受けている、という違和感のような不思議な感覚があった。味は、ぶどうジュースもウエハースも平凡なものだったが、言葉では言い表せない感動があった。初めての聖餐も無事に終了した。私もクリスチャンになったのだ、という新鮮な驚きが私の中に生じた。
 礼拝終了後にも信徒の方がお祝いの言葉を私のところまで来て寄せてくださった。本当に有難いと思った。
また、いろいろな人から洗礼を記念してプレゼントをもらい、自分のバッグの中に入りきらないほどになった。帰りのバッグの重さは嬉しい重さだった。
 礼拝終了後には、皆で食事をし祝会をした。楽しいひとときだった。
 私が洗礼を受けたかった決定的な理由は、「天国へ行くことを保障されたかった」の一語に尽きる。私は自分が滅びたり地獄へ行くことが怖かった。苦しみたくないという思いだった。
やっと今日、天国行きの確約切符を手に入れることができた。私は必ず天国へ行く。行かないはずがない。洗礼を受けたから絶対天国へ行くのだ。
無気力になって動けないほどではないが、今目標を達成したことにより、力が抜けている。自殺するのは神様に逆らう生き方だから絶対にしないし、したくないし、するつもりもないのだが、今日洗礼を受けて、もういつでも安心して死ねる、と安堵感に包み込まれている。
洗礼を受けるまで天国行きが確定されないから、受けるまでは死ねない、と洗礼を受ける前の私は思っていたが、その呪縛からやっと解放された。
 洗礼式を見守っていてくれた母は私が洗礼を受けたことを涙を流して喜んでくれた。精神保健福祉士のRさんも「素晴らしいものを見させていただきました」と心の底から私の洗礼式に立ち会えたことを喜んでいた。
 私が聖書を初めて買ってからちょうど15年。その間には、苦難の日々があり、自殺未遂も何回かしている。本当にあの頃は苦しかった。けれども、今思うことは、生きていて良かったということだ。あの時自殺が未遂ではなく、既遂になっていたとしたら、今日のような喜びの日を迎えることはできなかった。生きていて良かった。このことは何度記しても書き足りない。声を大にして叫びたい。
神様は私に試練をお与えになった。過酷な試練だった。乗り越えられないかと思われた絶望の日々だった。精神科の処方薬と酒のチャンポンに溺れた自堕落な日々。
母は私のその苦悩を共にしている。だから、感激もひとしおだったのだろう。私が体調が最高に悪かった時、母もうつ病でほとんど一日中寝込んでいた。お互いに調子が悪かった。あの頃は今日のような日が来ることはとてもではないが、想像することも、いや気力さえなかった。私は当時、人生に絶望し自殺未遂を繰り返していた。母は食欲がなく少量のパンとりんごしか食べることが出来なくて15キロくらい体重が減った。
現在、母と私、それぞれに何も問題がないわけではなく、あることにはあるのだが、いい方向に向かっていてありがたい。調子が一番悪かったころの私は30分も起きていることができなくて、教会へ行くことも当然のようにできるはずもなかった。それが、今では1時間の礼拝に出席し、今日なんてその後おおよそ3時間の祝会にも参加できている。以前からは信じられないほど活動の幅が広がってきている。

精神保健福祉士のRさんとは10年近くの付き合いで、私の絶望の日々にひたすら寄り添って、専門家としてサポートしてくれた。私が回復してきていることを喜んでくれていて本当に私は彼女に頭が上がらない。彼女のことについてはまた機会を改めてこのブログで語りたい。

あなたは私が3日前にブログで「祈ってください」とお願いしたことを快く引き受けてくれただろうか。

あなたの祈りが神に聞き届けられたようです。私は無事に洗礼式を終えることができました。ありがとうございます。

このブログを読んでくれているあなたが私のために祈ってくれたことに感謝したい。

最後に、牧師が洗礼式に臨むにあたり私に渡してくれた洗礼の次第のプリントを転載したい。これを読めば洗礼式のおおよその雰囲気がわかると思う。

1.宣言

司)主と会衆の前で、あなたに尋ねます。あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか?

答)はい、しりぞけます。

司)全能の父なる神をあなたは信じますか?

答)はい、信じます。

司)父の独り子、私たちの主イエス・キリストを、あなたは信じますか?

答)はい、信じます。

司)聖霊を信じますか?また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちをあなたは信じますか?

答)はい、信じます。

司)あなたは、この信仰のもとに、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか?

答)はい、神の助けによって。

2.受洗

司)私たちの主イエス・キリストは言われました。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

♯司式者は受洗者の頭に水を三度注ぐ。

星大地さん。私はあなたに洗礼を施します。
父と、
子と、
聖霊のみ名によって。

(受洗者)アーメン。

♯司式者は受洗者の頭に手を置いて祝福する。

あなたのすべての罪を赦し、水とみ霊とによってあなたを新たに生まれさせてくださった全能の神、私たちの主イエス・キリストの父が、永遠のいのちに至らせる恵みによって、あなたを強めてくださいます。

受洗者のための祈り
司)私たちの主イエス・キリストの父なる神さま。
洗礼によって、罪の力から解かれて新しいいのちを与えられ、この兄弟が、み国の世継ぎの一人として、受け入れられました恵みとみ心に感謝します。
み言葉と霊の糧によって彼を育て、日ごとに、あなたと共にある喜びを豊かに与えてください。
み子、私たちの主イエス・キリストによって祈ります。

♯受洗者は立って会衆の方を向き、会衆は起立する。
♯司式者は会衆に向かって言う。

司)神は洗礼によってこの星大地さんをキリストの家族、み国の世継ぎとしてくださいました。
この兄弟を受け入れ、この兄弟のうちに始められた神のみ業が達成されるように祈ってください。


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