2018年12月23日(日)のクリスマス礼拝で洗礼を受ける私のために祈ってください。 ―クリスマス礼拝および洗礼式まであと3日。

キリスト教エッセイ
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主イエスは十字架につけられて死なれてからから3日目に復活された、と聖書には書かれている。
私は今日、十字架につけられたわけではないが、この3日という同じ時が与えられたことに、どこか親近感を覚える。

洗礼式。一体、私のための洗礼式はどんな感じになるのだろうか。

最初通っていた改革派の教会で洗礼式があったが、あまり印象に残っていない。自分のことで、自分の体調のことでいっぱいいっぱいで、疲れていたこともあり、そう言えば洗礼式やってたな、というくらいの他人事のような認識しかなかった。今思うと受洗者に対して何て失礼な態度を取ってしまったのだろうと自己嫌悪にすら陥るが、私が立ち会った洗礼式はその一回きりだった。
だから、洗礼式というものに慣れていなくて親しみがない。教会を変えたこともあり、どんな感じになるのか未知数で期待と不安が入り混じっている。

他の人の洗礼式を何回も経験していれば、万事において問題がないのか?
そんなことはない。仮に100回洗礼式に居合わせたとしても、自分の洗礼式はどうあがこうと1回きりだ。当たり前だが、洗礼は何回も受けられるものではない。1回。以上。もう死ぬまで自分は洗礼を再び受けることはない。こうして書いていると、とても厳粛な気分になってきた。

先に以前通っていた教会で洗礼式があったと書いた。
たしか、イースターのことだったと思う。皆で食事をしたのだが、食事の支度がすべて完了し、各々席についたところで、一人一言ずつ祝いの言葉を述べることになった。
その時、私は受洗した高校生の女の子に向けて皆の前でこんなことを言った。

「Sさん、洗礼おめでとうございます。洗礼は第二の誕生日ですから、あなたにとってかけがえのない日になりましたね。本当におめでとうございます。」

今思い出すと、自分が洗礼を受けていないのに、よくもまあ偉そうにそんなことが言えたものだと赤面ものだが、カッコいいことを言った。

今、私は自分が洗礼を受ける3日前になって、自分が偉そうに言った言葉の重みを理解しかみしめている。
クリスチャンとして、古い自分に死に、新しい命が与えられ、もう一度誕生する。涙が出そうなくらい嬉しい。

しかも、聖書を初めて買ったクリスマスイヴから、ちょうど15年後のクリスマス。運命的なものを感じる。

改革派的には、天地が創造される前から、私が2018年12月23日に洗礼を受けることはあらかじめ神様によって決定されていた、ということなのだろうか。そして、私が救われるということも、あらかじめ予定されていたのだろうか。
わからない。神のみぞ知ることだ。でも、私には、信仰を含め救いを自分の力で勝ち取ったのではなく、恵みとして与えられたとしか思えない。

ルター派の信仰義認論は、すべて神様から与えていただくという考え方だ。自分の信仰も、自分が信じようと思って信仰に至ったのではなく、神様から信じる気持ちが与えられたから、信仰に至っている。

私は神様なしでは何もできない子どもだ。カルヴァン的な神学まで徹底するのはまた倫理的な問題を引き起こすので全面的には賛同できないが、人間が自分でできることというのは、ほんのわずかか、もしくは何もないのだろう、としみじみ思う。人間に自由意志があるかどうか、というのはどんなに議論をしても決着がつかない永遠のテーマだが、私はどちらかと言えば人間に自由意志を認めない方向に傾いている。ルターは日常的なことには自由意志を認めたが、神の前では、特に救いに関することについては、自由意志を認めなかった。エラスムスとの論争がそれを物語っている。

さて、あなたにお願いがあるのだが、聞いてもらえるだろうか。

無事に私が洗礼式を終えられるよう祈ってください。

厳密なことを言うと、人間はいつ何が起き、どうなるか全くわからない。
もしかすると、無いとは思うが、洗礼式を間近に控えて、アクシデントが、予想もしなかったような洗礼を妨げるような出来事が起こるかもしれない。だから、そうならないように祈ってほしい。さらに、日本全国の、いや全世界のクリスマスに受洗する人々が無事に洗礼を受けられるよう祈ってほしい。話が大きくなってしまったが、洗礼を受けるのは私だけではない。

世界中のクリスマスに受洗する人々のために祈ってください。

あなたの祈りは何と私にって心強いことだろうか。
あなたが祈ってくれることを期待して、洗礼式に臨みたい。


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