修養会行ってきました

キリスト教エッセイ
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 前の記事「聖餐についての本を読んでいます」で修養会まであと10日くらいしかないけれど、聖餐についての本を読み終えることができるかな、と書いたと思う。
 で、その修養会が先日終わったのだ。って「あれから10日経ってないじゃん」と思われたことだろう。実はあの記事は7月28日に書いたものなのだ。星さん、案外そういうことに大らかなのね~。あまり細かいことにこだわらないのである。そういうわけだから、結構、ブログに書くことが事後報告だったりする。ご了承願いたい。今日こんなことがあったとか書いているのに、それがその日の出来事ではない、ということがぽつぽつあるのだ。
 このブログの読者の方はきっと心が大きくて寛大だと思うので、星のこういうちょっとしたルーズさも大目に見てくださるんじゃないか。咎めないで受け入れてくださるんじゃないか。そういうわけで、星は読者に甘えている次第であります。
 さて、修養会行ってきましたよ。テーマは「聖餐」について。
 10人ちょい来たかな。熱心な信徒の皆さんです。(って星も熱心な信徒ということになるんでしょうけど。)
 礼拝堂に集った我らが信徒は牧師のスライドショーを使った説明を一生懸命聞いておりました。聖餐は主イエスの最後の晩餐から来ているサクラメント(聖礼典)でとても大切だということが牧師の説明からひしひしと伝わってくる。
 この日のために、この日のために聖餐の本を真面目に読んで準備してきたわけで、そのことについて言うなら、勉強してきて良かったと本当思った。予習はしておくもんですよ。と言いつつも結局、本は読み終わらなかったので、理想通りには行かなかったけれど、それでも勉強したことは無駄にはならなかった。
 それでね、星は質疑応答の時間に質問をした。いい質問ができたと思う。何について質問したかと言うと、パンとぶどうジュースがイエスさまの体と血潮に実際になるのか、それともならなくて象徴でしかないのか、っていうことである。
 わたしがこのことを質問したのは、修養会の中で実体変化とか共在説とか化体説とか、一切触れなかったから。わたしは一番気になることにノータッチだった牧師にそうしたことを皆の前で聞いてみたくなったのである。
 いわゆる聖餐論。牧師曰く、「そうした問題は面倒なことになるからあえてふれなかった。」と言いつつも、ローマ・カトリック、ルター派、改革派のそれぞれの聖餐理解をざっくりと説明してくれた。わたしは自習している時にここが分からなかったのだ。文章を読んだだけではよく分からなかった。その分からなかったところが鮮やかに目の前でマグロの解体処理みたいに捌かれていったのがとても鮮やかで、疑問が解消されて嬉しかった。
 修養会が終わった後、牧師にアピールしたい星は「今日のために聖餐について勉強してきたんですよ~。それで勉強してて分からなかったところを質問したんです。」と興奮気味に牧師に話しかけた。そうしたら聖餐論は難しいところだということを教えてくれた。そうか。そうだったのか。聖餐論って難所なのか。だってそれもそのはずである。聖餐論はある意味神秘の領域なのだから。当然と言えば当然のことである。
 修養会という一大イベントも終わり、8月ということで教会の諸集会もお休み。一息ついた星なのであった。さて、何をやろうか。放送大学も単位認定試験の結果待ちでスタートするのも10月からだ。だから、まだ時間がある。
 そうだ。この際だから、ヘブライ語とキリスト教史をやろう。それがいい。そうしよう。決断した星は早速久しぶりにヘブライ語のアレフベートをまずは覚えようと勉強を再開したのだった。それでやっと12個覚えた。キリスト教史もぼちぼち始めて波に乗り始めている。
 わたしの今年の夏の目標。ヘブライ語のアレフベートをまずは完璧に覚えて、それから母音記号もマスターしてヘブライ語を音読できるようになること。これができるようになりたい。そして、ゴンサレス『キリスト教史』を何回も繰り返し読んで頭に入れる。この夏やる二つのこと。頑張っていきたい。

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