すごいとかすごくないとか

いろいろエッセイ
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 公園に来て2、3周したら何だか誰がすごいとかすごくないとかどうでも良くなってきた。
 あるヨガの先生はすごい。ヨガの本場であるインドへ行き修行をしているのだから。でもすごいことはすごいのだけれど、だからそれと比べてわたしはどうなのか、という話ではないと思う。わたしはおそらくすごい人にはなれない。もうそれは分かっている。でもわたしはわたしなりに輝けばいいのではないか。誰かと同じ位輝けなくても別にそれはそれでいいのではないか。
 というか、各界のトップの人たちしか存在意義がないのであれば大衆は要らなくなる。優れたエリートさえいればいいのであれば何も凡人なんていなくていいことになる。むろん障害者とか病人なんて社会のお荷物でジャマなだけだし、生かすのにコストがかかるのであればそれは単なる無駄。無駄の極み。
 人類を改良して優秀な人だけを残そうとする動き。それを追い求めていった先に何が待っているのか。みんながみんなトップ俳優のようにカッコ良くて美しい。運動能力はプロアスリートレベルが普通。知識は天才が当たり前でサクサク難問を解いていく。となれば、その世界でさらにトップに立つためにはカオスと言ってもいいような異次元レベルにならなければならない、と思う。かと思ったらそんな世界ではかえって精神障害や知的障害が見直されて、そんな人たちこそ人間らしくてクールだということになっているのかもしれない。また同じように身体障害があることに憧れる人たちが大勢現れるということにもなりそうだ。
 そう考えていくと一体「すごい」って何なんだろうという疑問が出てくる。そもそもすごい人というのは本当にすごくて価値があるのだろうか。ただ一つの能力が突出しているだけのように思えなくもない。そのすごい能力が反社会的な方向で発揮される場合にはそのすごいはかえってマイナス、いや絶対的な負のオーラを放つものとなる。たとえば一日のうち起きているときにほぼ休むことなく性行為をしなければ生きていられないような重度の性欲異常者が考えられる。
 だから「すごい」はそれによって社会から高く評価されて、名誉や富や社会的な地位などが得られる場合にだけ、すごいと賞賛されて尊敬されるのだ。
 もしかしたら普通とか平均的っていうのは面白くないようで実はすごく価値があって尊いものなのではないか。優れていすぎることもなく、劣っていすぎることもない。ちょうどいい絶妙な按配と言ったらいいだろうか。
 と言いつつも矛盾するけれど、より優れた人間になりたいと思ってしまうわたし。これは本能なの? 人間が滅びの道から逃れるために組み込まれた本能なのかもしれない。強く、賢く、優しく、美しく。全ては優秀な子孫を残してヒトという種を発展させていくため。そう思ったら、何だか自分の考えていることも結局、種の保存でしかないんだなと笑ってしまった。
 優れた存在になりたいと思うヒトとしての、動物としての本能のようなものとどう向き合って、どう付き合っていくのか。逆らうことなくその方向で行くのか、あるいはあえてダメダメな方向へ良くなろうとはしていかない生き方を取るのか。
 本能の力は強し、だな。

 12時45分 森の公園にて記す。



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