これも仕事じゃないかと思いますが

いろいろエッセイ
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 来る日も来る日もわたしのブログに寄せられるコメントは、文章とは関係のない宣伝だったり、はたまた英語の意味不明な文章だったりで、スパムのようなものしかなかった。
 と、やっとコメントがついた。どうやらこれは文章を読んだ上でのコメントらしい。やっとまともなコメントだ。
 が、そのコメントはわたしにやんわりと批判を向けてくるものだった。何でもブログ執筆や勉強に逃げないで働こうよ、とのことのようである。まぁ、いいところをついている。統合失調症が完治したら働こうよというそのコメントはおそらく常識のある人からのものに違いない。
 わかる。たしかにわたしがこうして働かずにいられるのもわたしが統合失調症で障害年金をもらえていて、それから住む家もあるからだということは否定できない。
 わけわかんないことしてないで働けという良識ある人物からの批判だが、どうも腑に落ちない点が二点ばかりある。それをこれから一緒に考えていこう。
 まず、ブログ執筆と勉強に逃げないで働けとのことだが、わたしの星さん.netのブログ記事の執筆って仕事みたいなもんじゃないの? 違う? 賃金が発生してないから仕事とは言えない? 仮に仕事とは言えないとしても、これって社会貢献してません? わたしは微力ながらも社会を良くする方向に一役買っていると思うわけよ。甘い? 甘すぎる? きっと甘いって言うだろうね。でも、これはいわばボランティアみたいなものだとは言えないだろうか。でも、わたしはこれが今自分にできる仕事だと思っているんだけどね。仕事として承認してもらえません? え? やだ? も~、困ったな。大地、困っちゃう。(リンダ、困っちゃうじゃなくて。古。年がばれるなってもうばれてるけど。というかリンダの時代にはまだわたしは生まれておりませんね。笑)
 まぁ、わたしのこのブログが仕事じゃないって言うのなら、仕事の定義がわたしとあなたとで噛み合わないんだろうね。わたしは仕事というものを広くとらえていて、たとえ賃金が発生していなくても、何らかの利益が誰かに発生していればそれはもうすでに立派な仕事だと思うのだ。このブログだったら、少なくとも何人か(数名かもしれないけど)は読者の皆様がいて彼らを楽しませている。いや、楽しませるところまでいかなくても、暇つぶしくらいの働きはしている。それくらいはできているんじゃないかな。だから、利益がたとえ賃金という形で現れなかったとしても、何らかの貢献はできているはずなのだ。まぁ、毎日アクセス数が0で自分以外の誰にも読まれていないのであれば、それを仕事ともボランティアとも言うのは難しいとは思うけれど、このブログには毎日わずかながらも読者がいてくださっている。彼らが0にならない限り、わたしのブログには意義がある。せめてこのことくらいは認めてほしいな。
 次にわたしが思うこと、二点目は、働くか働かないかというのは本人が自分で考えて決めることじゃないかっていうことだ。
 仮にわたしの統合失調症がめでたく完治したとしよう。もう障害年金はもらえない。さぁ、これからどうしよう、ってなった時にそれからどうするかはわたしの自由ではないかと思うのだ。
 わたしがこれでは困るから働こうと一念発起する。働く。反対に、いや、それでも働きたくないと思う。働かない。
 どちらを選択するか。それは自由だ。というか、どうしても働きたくない人に働かせようとすることなんて無理な話だ。たしかロバに水を飲ませるために池まで無理矢理連れて行くことはできるけれど、水は無理矢理は飲ませることができない、といった昔の格言があったかと思う。つまり、首に縄をつけて引っ張っていっても本人に働く気が全くないのであれば、働かせることなどそもそもできないのだ。それとも、「お前、働け。働かなければ拷問にあわせるぞ」と脅すつもりなのだろうか。それってれっきとした脅迫だし、立派な人権侵害だろう。
 もちろん働かないことによって受けるペナルティーのようなものは一応、あることにはある。それは最低限度の生活しかできない、という制限だ。しかし、最低限度の生活さえできればそれ以上は望まないよ、と言う人にとってみれば無理をして働くことに魅力を見出すことは難しいのだ。学校でこういうことを教えないのは鉄板だけれど、それを言うことによって勤労意欲を失ってしまう人が大量に発生することを恐れてのことだと思う。別に贅沢しなくたっていい。できなくたっていい。俺は、私は最低限度の生活ができればそれでいいんだ、と考える人が過半数になってしまったらこの国の行く末はどうなるんだと案じる人もいることだろう。そうなったらなったでまぁ、何とかなるんじゃない、というのがわたしの考えだ。富裕層から、税金を取れるところから取れば、それでいいんじゃないのと思う。でも、こういうことは学校では教えない。それは身も蓋もないことだから。本当のことかもしれないけれど、みんなやる気をなくすから。わたしが受けてきた義務教育では生活保護について「最低限度の生活を営む権利」だと教わった程度だ。あとは生存権が何たらとか。あまり詳しく教えすぎると頭のいい子が「じゃあ、何のために働かなければならないんですか? 生活レベルを上げるためですか? いい暮らしをするためですか?」と痛いところをつついてくることだろう。教師が建前として「自己実現のためだ」とか「夢をかなえるためだ」とかまたまた「人類の発展に寄与するためだ」などと言ったところで、その賢い子は「ぼくはそういうのに乗っかりたいとは思えないです。最低限度の暮らしであっても生きていければそれでいいです」と返すことだろう。教師はこういう子の扱いにはほとほと手を焼くこと必死だ。「生涯賃金の2億円を手放すことになるが、それでもいいのか?」と切り出してもその子はきっと「自分の時間を失う方がよっぽどそれを得ることよりも切実な問題です」とまともな感性で反論してくることだろう。こうなったらもう議論は平行線である。
 そもそも、わたしが働くか働かないかというのはわたしが決めることじゃないの、って思う。だって働くにしろ、働かないにしろ、それをやるのは命じるあなたじゃなくて、このわたしなんだから。やるのはわたしなのだ。だから、わたしに決めさせてほしい。もちろん、働いた方がいいと思うよ、と相手に意見を述べることはできる。が、それは一つの意見でしかなく、それを採用しようが却下しようが、それはわたしの裁量であって、わたしに委ねられていることではないかと思うのだ。
 おそらく働こうよとわたしにありがたい忠告をしてくれた人は、少しでも(週1や週2からでもいいと優しく諭そうとしてくれていたが。)働いて社会のために貢献して、自分の手で毎日の生活の糧を稼ぐ。その日々の労働こそ尊く意義があるのだ、と言いたいのだろう。言おうとしていることは分かる。もっともだ。常識的な発想においては至極もっともだ。
 が、もしもあなたが逆にわたしからこんなことを言われたらどう思うだろうか。「働くなよ。労働に逃げるなよ。精神を磨くためのブログの執筆や勉強などに精を出しなよ。」と。こんなことを言う人はおそらくあまりいないことだろう。けれど、あなたがわたしからこう言われて何かムッとするものがなかっただろうか。それは相手が大切にしているものを否定しているからだ。わたしはブログの執筆と勉強を大事なものとして大切にしている。それはあなたにとっても大切にしているものこそ違えど、同じであなたは労働を大切にしている。それを、それに逃げるなと言ってしまう時、それ自体を否定していることにならないだろうか。みんなそれぞれ大切にしているものがある。それを尊重しようよ、とわたしは言いたくなってくる。
 なぜ働くのか。この古くて新しい問題には多くの意見があることと思う。この文章でわたしが連ねたのは、ある意味根源的なことだと思う。働くことはそのことに時間を用いることだ。それも働き方によっては人生の多くの時間を注ぎ出すことだってある。だからこそ、人にとやかく言うのではなくて、その人らしい働き方(働かないという働き方も含めて)を尊重し合っていけたらと思うのだ。そこに強制や、間違っても脅迫などがあってはならない。各人が本当に心の底から納得できる働き方ができる世の中になってほしいとわたしは願っている。この文章がそれにたとえ山火事に注ぐ一滴の水のようなものでしかなかったとしても、何らかの影響を与えることができるのであれば、それこそこの執筆は仕事のようなものであり、意義があったということだ。わたしにできる広い意味での仕事を模索しつつ、わたし自身の人生の質を高めていくことができたら幸いである。
 少なくともわたしはこの執筆が逃げだとは思っていない。このことはいくら強調しても強調しすぎることはない。ビシバシ、いいところをわたしなりにつけていると思うんだけどな。だめ?
 というか、生きていること自体がまず仕事だったね。うっかり忘れておりました。失敬、失敬。
みんな生きているだけで、只今仕事中だよ。

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