いてくれるだけでいい

キリスト教エッセイ
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 毎日、仕事(賃金を得る仕事)はしていないけれど、それでも日々、読書に勉強にブログの執筆に料理などの家事にと奔走する星さんである。暇なようで忙しい。自分で忙しくしているだけなのかもしれない、とふと反省してみたりもする。でも、こういう毎日を自分が送りたくて選択した結果なのだから、そのことには責任を持ちたいと思っている。
 あなたは今まで誰かから言われて嬉しかった言葉が何かあるだろうか。わたしはある。それは「いてくれるだけでいい」という言葉だ。何だか急にトーンが恋の話っぽくなってきたと思う人もいることだろう。でも、これは恋の話ではない。と言いながらももしこれを未婚でわたしに恋愛感情を持っている女性から聞けたとしたら、わたしは一撃でノックアウトだろう。それくらいわたしにとってこの言葉は言われて嬉しかった言葉だった。
 この言葉は教会で礼拝が終わって帰ろうかと思った時に、教会員のTさんから言われた。Tさんはわたしに言う。「いつもありがとうございます。」わたしはTさんに何か特別なことをした覚えが何もなかったから、一言「私は何もしていないですよ」とある意味ドライに返した。そうしたらTさんがあの言葉をわたしに言ってくれたのだ。「いてくれるだけでいいですから。嬉しいですから」と。
 わたしはその瞬間、わたしという存在のすべてを丸ごと無条件で承認してもらえたと思った。何かしたとか、しないとか。何ができるとか、できないとか。そういうことではなくて、わたしがただそこにいること。それだけを無条件で愛してくれたのだ。わたしは母以外の人からそういうことを言われたことがなかったので、そのあまりの包容力というか、人間のあたたかさというか、そういったものに一瞬たじろいでしまったほどだった。自己肯定感の低いわたしは本当にこの言葉が今、わたしに向けられて発せられているのかとこの現実を受け入れるのに少しばかり時間差が生じてしまったくらいだ。それくらいTさんの言葉にはインパクトがあった。衝撃があったと言ってもいい。
 愛を哲学的に探求するとか、神学的に検討するとか、そういういったことが小賢しいと思えるくらい彼女の言葉は愛を体現していた。どんな思弁や説明などもまったく足下にも及ばないくらいそれは愛だったのだ。愛を語るなどといったものではなく、まさに愛を放っていた。
 日々、向上しようと研鑽している人間が一番言われて嬉しい言葉。それは「頑張ってるね」でも「頭がいいね」でもなくて、逆説的だがそういったものではなくて、「いてくれるだけでいい」だったりするのだ。
 考えてみれば、日々努力して向上しようとしている人というのは今の自分をよしとしていないことはたしかだ。今の自分でよかったらもう何も付け加えるものなどないし、そもそも成長する必要もない。筋トレなどを考えてみればよくわかる。それは現状に満足していなくて、もっとたくましい体になりたいとか、筋肉をもっとつけたいとか、まだ見ぬ自分の姿を追い求めている。もっと良くしたい。向上したい。その思いには常に今の自分への不満のようなものが渦巻いている。本当に精神的に満たされているいわば仙人のような人は体を壊すまで筋トレなどしないし、知的な活動をぶっ続けでやり無理をすることもない。いつもナチュラルで、自然体である意味達観しているのではないかと思う。
 いわば上昇志向のわたしがハートを揺さぶられた本当に嬉しかった言葉。それが「いてくれるだけでいい」という何も要求してこないありのままをよしと認めてくれている言葉だったのだ。
 反対に、条件付きの承認は承認を得るためにその条件を満たさなければならない。だから、その条件をクリアーしてはじめて承認が与えられるのである。いわば父親と母親がいたとしたら、父親的な承認の仕方だろう。こういうことを書くと、男女共同参画時代に時代遅れだと批判を受けるかもしれないが、社会に出て働いている父親が仕事を通して自分が承認を得ているように、その仕事のような関係を家庭にまで持ち込んだような形なのではないかとわたしは思うのだ。つまり、何かをしたり、何かができたりした時にやっと受け入れてもらえるようなそんな承認なのだ。もちろん、こうした父性的(父親的)な承認のあり方も必要だ。すべてが母性的な、母親的なものだったらまたそれはそれで問題が発生する。程度の差こそあれ、社会は無菌室ではなくて、戦わなければならない側面ももちろんあるからだ。
 しかし、もしもすべてが父性的な価値観に染まってしまうとこれまたうまくいかない。というのはすべてが戦いになってサバイバルで生き残り競争になってしまうからだ。家庭の温もりというか、ただ「あなたがいてくれるだけでいいんだよ。生きていてくれるだけでいいんだよ」というメッセージを与えて無条件に包み込んでくれるようなそんな母親的な存在も必要だ。家の外で戦って、それから家の中でも戦いがあるとしたら、一体その人はいつ休息したらいいのだろう。だから、条件付きの承認だけではなくて、無条件の承認も必要だ。
 条件付きと無条件の承認。両方必要だと書いた。けれど、わたしが思うに最もその人間を支えるのは、支えてくれるのは無条件の方の承認ではないかと思うのだ。なぜなら、条件付きの承認はそれができなくなった途端に突き放されるからだ。会社の仕事を考えてみれば、仕事ができているうちはいい。優秀な結果が残せているうちはいい。しかし、もし何かが起こって仕事ができなくなったり、続けられなくなったとしたら、最低の取り返しがつかないような大失敗をしたら、クビなのである。仕事ができない人間に、できなくなった人間に用はないのだ。しかし、無条件の承認は違う。どんなに仕事ができなくなっても見捨てないし、どんな大失態をしたとしても「生きていてくれるだけでいいんだよ」ときっと温かく受け入れてくれることだろう。
 無条件の承認において、あえて条件をつけているとしたら、その人であることくらいだと思う。その人がその人であること。それ以外は条件を何もつけない。母親的な愛情において唯一の条件は自分の子どもであることだけであるが(養子などを受け入れている場合もあるから実親であることが必ずしも必須の条件ではない。)、もっと広い意味での無条件の承認はこうした条件をも撤廃する。
 無条件の愛。それを完全になされるお方はイエスさまだけだと思う。母性的な愛情であっても、何らかの条件を無条件と言いながらも不完全な人間だから何だかんだとつけてしまう。しかし、イエスさまだけは違う。母親を含む世界中の自分以外の人間がすべて敵に回ったとしても、イエスさまだけはわたしを絶対に見捨てない。
 そのイエスさまの愛を太陽だとしたら、先述のTさんは月のような存在だと思う。イエスさまの太陽のような愛を受けて彼女は光を放っている。月が美しく光っていられるのは太陽があってその光を受けているからこそだ。
 彼女とわたしを含めた教会員は同じイエスさまを囲んでいて、イエスさまのあたたかな愛を全身で浴びるように受けている。Tさんのわたしへの無条件の承認も彼女がイエスさまにしっかりと無条件で承認していただいているからこそだと思うのだ。そして、彼女のまわりの人たちも彼女を愛していて、彼女と彼らはお互いに承認を与えあっているのだろう。Tさんのわたしへの愛もイエスさま由来の愛なんだ。そう思うと何だかわたしは嬉しくなる。
 イエスさま、あなたの愛は世界を明るく照らしてくださいます。感謝、感謝です。

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