14歳のきみへ

いろいろエッセイ
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 あなたに言いたいこと、伝えたいことがありこうしてわたしは文章を書いています。
 14歳。わたしが14歳くらいの時には自分は何でもできると信じていました。それがだんだん年を取るにつれて、自分の限界のようなものが見えてきて、次第に夢を見ることを忘れて、今に至っているような感じです。
 あなたはまだ14歳ですから、何かを頑張れば大きな花を咲かせることの出来る可能性があります。その可能性があることをまずは大切にしていってください。
 あなたにわたしがぜひとも期待したいことがあるので聞いてください。それは共感力の高い人間になってほしいということです。共感力。この3文字、この3文字がこれからの時代にとって重要な能力であるとわたしは思うのです。共感力の高い人間とはすなわち相手の立場になって物事を考えることができることを意味します。逆に共感力が低いとどうなるかと言えば、自分の考えを自分の立場からしか見ることができないので、どうしても自分の意見を相手に押しつけたり、決めつけたり、挙げ句の果てには相手をねじ伏せて支配しようとしたりします。共感力のある人とは対話ができる人とも言えましょう。わたしたちはみんな違う人間です。生まれ持った性格も気質も違いますし、家庭環境も異なれば、背負っている歴史も違います。そんなみんながみんな違う時に共感力は力を発揮すると思うのです。かく言うわたしも決して共感力の高い人間ではありませんが、それでも決めつけられたり、意見を押し付けられたりすると反発します。100人いれば100通りの考えがあって、その違う状況で妥協点と言いますか、落としどころを探っていくということが大切です。これができる人がなかなかいないのです。どうしても自分の主張やそれに近い考えばかりになってしまって、異なる考えを排除してしまうのです。相手の意見をやっつける、つまり潰すことしか考えられない人は共感力が低いのです。
 あなたは今、苦しいですか? 勉強が嫌で嫌でたまらないとか、学校に嫌な人がいるとか、何かありますか? だとしたら、今置かれている環境や状況が世界のすべてだと思わないようにしてください。勉強が嫌だったらやらなくてもいいし、学校へ行きたくないのなら行かなくたっていいのです。それよりもそれらを無理してやろうと頑張って、生きているのが嫌になって人生を終わらせようとしたりする方が比べられないくらい問題だと思います。勉強、学校。それらはやった方がいいものですが、嫌だったらやらなくてもいいものです。勉強もやりたい時が来たらやればいいのです。わたしも高校生の時、勉強が嫌で嫌でたまりませんでした。高校だって今思えば無理して行く必要なんてなかったと思えます。受験中心の進学校ではなくて、農業高校へ行っていたほうが良かったと思っているくらいなのですから。焦らず勉強をやりたくなるのを待っていると、いつか心から勉強を楽しいと思える時期が必ずやってきます。だから、焦らないでください。今、あなたにはその時期が来ていないだけだと思うのです。
 仮にあなたが勉強が嫌いだとして、何もやりたくないとしましょう。でも、何かやりたいことはあるはずです。なぜなら、試しに一週間ほど何もしないでご飯だけ食べる生活をしてみれば、それが大抵の人の場合、苦行に思えるからです。
 わたしがどん底で精神的に荒廃していた時、精神病院の保護室に隔離されたことがありました。保護室とは何もない部屋です。何もない広い空間にただいるだけで、雑誌や本などももちろん読めません。患者が過敏になっているために、極力刺激を与えないようにするための部屋です。わたしはそこに3日間いましたが、とても耐えられるものではありませんでした。何もしないということが苦しいことだということがよく理解できた体験でした。ですから、あなたが毎日の生活に疲れたら、何もしない生活をしてみてください。何もしないでいることは大変なことです。そして、その中であれがしたい、これがしたいと浮かんできたり思えたことがきっとあなたのやりたいことではないか、とわたしは思うのです。こうしたことを試してみて、それでも3年でも5年でも寝ていたいと思うのでしたら、それがあなたのやりたいことなのでしょうし、(そんな人はおそらくいないと思うのですが)そんなことはなくて、何かやりたいことがあれば、それをやるのがいいでしょう。
 そんな気ままなことを言っていては食っていけないのでは、と思われるかもしれませんがそんなことはないので安心してください。あなたがアフリカとかアジアの貧しい国に生まれたとしたら、この理屈は当てはまるのでしょうが、日本は豊かな国です。最低限の生活はどんな人でも送れるような社会の仕組みが出来上がっています。むしろ生きていくことは権利です。そのことさえ忘れなければ、日本において餓死することなどはありえません。生活保護などありとあらゆる方法を駆使して生きていくべきです。
 少なくともあなたが死にたいと思うのであれば、無理してでも働けとはこの社会は言いません。無理して働かせて命を失われては元も子もないからです。
 わたしの言っていることは甘いと思いますか? 決して甘くはないと思います。働けない人間に働かせる社会は歪んでいます。働けないのに働けと迫るのは暴力に他ならないからです。
 働いてバリバリ稼ぐ人生もいい。けれど、働かず、あるいはあまり働かず細々としている生活もそれはそれでいい。つまり、こうあらねばというのはないわけです。各人、能力に応じて自分なりの貢献の仕方で社会に貢献していけばいい、というのがわたしの考えです。人生にはさまざまな生き方があります。ですから、バリバリ稼いでバリバリ使う人生がすべてではないのです。それが一番良くてそれ以外はダメだということはないわけです。
 あなたがこの文章を読まれて何を感じているのかはわたしには想像することしかできないのですが、人生は一つの杓子定規に当てはめて生きるだけがすべてではない、ということを分かっていただけたら肝心なことは伝わったかと思います。
 あなたから見たらわたしなどは人生の負け犬であり敗残者であり、弱い犬が吠えているだけだと思われるかもしれません。ましてやわたしが精神障害者だというのがある種のヤバい人でこわいと思われたかもしれません。たしかにその言い方、見方は癪にさわりますが、そのような見方にも一理ありましょう。けれど、思うのです。わたしは幸せ者ではないかとしみじみ思うのです。生活のための労働が免除されて、年金までもらえている上に、わたしには信仰も与えられているのです。そして、キャベツを育てることもできて、その前に佇むこともできるのです。逆にわたしには、わたしが持っていないものを全部持っている弟がとても不幸に見えたのです。結婚もしているし、車も持っているし、仕事もしているし、仕事では部下もいるくらいの上司だし、家も新築で建てたばかりだし、東京で生活している都会人だし、オシャレだし、ダサくないし……、と持つもの持っている弟なのですが、何よりも大切な心の平安が得られていません。それだけ持つもの持っているのに、肝心な、いや、一番大切なものを持っていないのです。そして、苦しそうな表情をしていて、もっともっとと欲望のおもむくままに足ることなど知らずにより良い暮らしを渇望し続けている。これは不幸なんじゃないですか。幸福は比較するものではないですが、わたしの方がずっと幸せだと思いますよ。
 以上がわたしの拙いあなたへのアドバイスでしたがいかがでしたでしょうか? もしかしたら何も参考にならなかったかもしれませんが、いつか役に立つ日が来ると思いますのでその日まで心の片隅に留めておいてください。
 また5年後、10年後に同じテーマで書けたらと考えています。その時には、そう、あなたも14歳のきみへぜひメッセージを書いてほしいです。19歳のきみ、そして24歳のきみ。その時のあなたがわたしと同じようなことを書いてくれるんじゃないかということを願いつつ。おせっかいな38歳のおじさんの戯言を生かしていただけましたら、何よりも幸いです。
 神様は共におられます。感謝。

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