何のために生まれて何をして生きるのか?

いろいろエッセイ
この記事は約9分で読めます。

「何のために生まれて、何をして生きるのか?」というのはかの有名なアンパンマンのマーチだけれど、最近のわたしはそういったことを考えなくなった。人生の目的とか使命は何かとか、そういったこと自体ほとんど考えていないのだ。
 これは言うまでもなく精神状態が落ち着いてきたからではないかと思う。何のために生まれたとか、何をして生きるとかいうのは悩んでいる人のテーマであって、今が充実している人間にとってはあまり深刻な問いとはならない。
 普段はそういったことを問わないのだけれど、この際せっかくだから問うてみよう。
 何のために生まれたのか? そんなこと分かりませんよぉ。きっと聖人とか、神様とかそういった存在なら超越的な世界を知っているからわたしが生まれた目的だったり理由もきっと知っているのだと思う。でも、この平々凡々の凡人の星さんにそんなこと分かりっこない。考えても分からない。それだけはたしか。自分で考えても分からないから、自分の内側や、外側におられる神様に聞いてみるわけなんだけれど、もしかしたらそうすれば分かるかもしれない。でも、さしてそれについて関心がわいてこない。でも、今、この場で問うている。何のために? この文章を書くためだよ~ん。真剣味が足りない。だから、あんまり知りたくないんだってば。知りたいとか思わないんだってば。
 ここで少し角度を変えてみて、わたしはどうしてそういった何のためとかいう人生の目的なんかに関心がないのだろう? そう、それは観念に過ぎないから。頭で拵えたものでしかないから。
 わたしの人生の目的は○○です、と言える人は少数派だとは思うけれど、きっといるだろう。これをやるのが人生の目的です、ってズドンと打ち出せる人。かっこいいなぁ、って昔は思ってた。人生の目的がしっかりと定まっていてそのために生きて、そしてそのために死んでいく。何て素晴らしいんでしょう、って思ってた。でも、ヨガをやるようになってからそれが硬直したマインドだと気付かされた。ヨガってね、何かすごく自由なんだよ。自由というのは何でもありのシッチャカメッチャカ、暴飲暴食の性的乱交の酒池肉林という意味での自由ではない。そうではなくて、マインドがすごくしなやかで「絶対こうだ」みたいなあり方ではなくて、「わたしはこう思うんだけれど別の見方もあるよね」と穏やかに相手の意見を認めることができる。そんなあり方なんだ。まぁ、そこまでできるとこまでわたしはまだまだ行っていないことは反省するとして、ともかくそんな感じだ。
 わたしの人生の目的、これをやるために生まれてきたんだ、っていうのはまぁいいにはいいんだけれど、そうやってガチガチに自分の周りだったり自分自身を固めてしまうのって結構窮屈なことなんだ。もちろん安定はしますよ。石とか岩とかみたいにそこに固まったままいれば安定はしているから。でも、わたしはそうではなくて、水のようでありたい。悪く言えば流されるとも言える。けれど、その場その場の状況や変化に応じて柔軟に対応していく。たしかに今まではこう考えていた。でも、こうかもしれないから今日からはこういう感じにしていきたい、みたいに柔軟に変えることができる。そんなしなやかさが欲しい。
 それに概念というのは頭でこね上げたものでしかなくて、それに対応するものというのはそもそも存在しないと思う。人生の目的だったり、自分が何のために生まれたかといった考えなんかも、詰まるところそういったものが何かリンゴとかみかんとかのようにあるわけではない。ここが結構重要なところなのだと思う。実際あるのは具体的な物なんかの場合だけで、それ以外の愛とか希望とか目的とか、そういったものは存在しないんだ。あるのは、そういった事柄があるだけで何もこれが愛です、なんて示せるわけではない。だから、自分には生きている価値がない。だから死ぬんだ、みたいなことはそもそもする必要がない。なぜなら、価値とか何とかいうものなんて存在しないから。たしかにみんなが好きなものだったり大切にしている物だったり事柄だったりというのはある。でも、じゃあ価値をこの場で示してくださいなんてやったら誰も示せないんじゃないかなって思う。自分の市場価値にしても○○万円です、とは言える。じゃあ、その価値ってお札、1万円札の束なわけだけれど、あなたの価値はこの紙きれの束なわけなんですか、とならざるを得ない。思うんだけれど、その人の価値が仮にあるとしても、それは札束ではない。だって、その人と札束とは違うものなんだから。比べたり交換することなんてそもそもできないはずなのでは、ってツッコミを入れたくなるのはわたしだけ? まだそれでも、同じもの。みかんとみかん、誰かと誰かだったらまだ比べられそうだけれど、まずもって違うものは比べられない。と突き詰めるなら、同じみかんや同じ人なんていうのもないし、いないからどっちの方が上とか下とか優劣をつけるなんていうのは無理なんだ。誰かが「こういうみかんは優れていて、こういうみかんはダメなみかんです」と基準を作らなければ優劣なんていうものは付けられない。
 最初に戻って、やっぱり、わたしは何のために生まれたか、なんてそんなこと分かんないって思う。実際、過去の先人たち、地球が誕生してからかどうなのかそれは不明なものの、その最初の人間(キリスト教ではアダムですね)から今に至るまで一体何人の人が生まれては死んでいったのだろう? ものすごい数だろうなぁ。で、その内の何%の人が自分が何のために生まれてきたのか、ということを分かっていたのか。知っていたのか。もちろん、自分で勝手にこうに違いないって間違ったことを確信するというのはその数に含みませんよ。そうではなくて、本当に正しい、本当の本当の嘘偽りのない理由やら目的を知っていた。そんな人ってどれだけいたのだろう? 哲学青年のように「俺は何のために生まれてきたのだろう?」とうんうん唸ってみてもおそらく答えは見つからない。唸ったところで分かるわけなんてないし、っていうか、もしも答えが見つかったと思っても、その答えが合っているとどうやって確かめるつもりなんですか? 神様に聞くとか、自分の内なる声を聞くとか方法はいろいろございますけれど、その方法をやったところで、それが100%正しい真理なのだと誰が確証してくださるんです? いやいや、こういうことを言うのは不謹慎だとは分かっている。でも、人間にはそういったことは知ることができないんじゃないか、という風に思えてならない。が、真理が、真理が自分の内側か外側かは別としてもズドンと分かった、ということもあるのかもしれない。って「かもしれない」としか言うことができないのが歯がゆい。ぬ、ぬ、ぬ。クリスチャンならそこで神様が、イエスさまが真理だって言うべきなんじゃないの? ごもっとも、ごもっとも。
 で、わたしが思うに自分が何のために生まれてきたのか、っていうことを本当に分かっていた人ってほとんどいなかったんじゃないかと思う。最初の人間から今に至るまでの間で、そのことを確信していた人。そして、さらに正しいことを確信できていた人。そんな人ほとんどいなかった、はず。が、結局、その確認というか、確かめ方のようなものがしっかりと確立されていないことがこの問題をややこしくしていることは事実。みんな何も分かっていなかったのか、あるいはみんなしっかりちゃんと分かっていたのか。一部の人しか分かっていなかったのか、なんて言ってみたところで、その人々が確信していた答えの正否を確かめる答えのようなものがない。いや、ある? もうしっかりと真理はあるのですよ。いや、そううではなくて答えは人の数だけ存在する。いやぁ、シッチャカメッチャカ。混乱していて混沌としております。
 とここまで書いてきたわけですが、何か思いついたことを殴り書きしているような次第ですので、どうもまとまらない。久々にまとまらないぐだぐだした文章書いたな。
 と、と、と。自分が何のために生まれてきたのか分からなくても別にいいじゃあありませんか。毎日が楽しくて、面白くて、充実していて、幸せでありさえすれば。わたしはアシュタンガヨガと出会って、今すごく張り合いがあって充実していて幸せです。それ以外の時間(ヨガ教室以外の時間)もお料理をしていて、おいしいカレーを頻繁に作っています。で、それを母と一緒に「うまい、うまい」と幸せに食べています。読書はあまりしていません。もちろんもっとしなければ、という気持ちもあるのですが、しなければヤバイとかこのままでは人生が終わってしまうとか何とか言う脅迫観念的なものはございません。仕事はしていません。ヨガ教室へ行くと、普通の人たちは朝、教室へ行ってヨガをしてから仕事へ行くそうです(しかもフルタイムのお仕事のようです)。すげーって心底思います。本当に同じ人間なのか、とさえ思ったりもします。でも、人は人。わたしはわたし。アシュタンガヨガのマイソールクラスのように、こっちでは足を首の後ろに回しているかと思いきや(高度なヨガです)、こっちでは太陽礼拝に悪戦苦闘している(まだ始めたばかりなのでしょう)、でもいいわけなのです。その人、その人なりの限界だったり何なりがあって、その中で自分なりにやれていればいいのです。わたしのことを贅沢な甘えた暮らしをしていると批判してくるお人もございましょう。でも、わたしとは比べ物にならないくらい甘えた暮らしをしている人はたくさんいます。親が金持ちで好き放題カード払いで自分の欲しいものを闇雲に買いまくっている人もいます。毎日もちろん働きもせず、勉学もせず、そして自分でお料理などももちろんすることなく(シェフに作ってもらっている)、持っている財産はどんどん投資なり何なりして雪だるま式に増えていっている。欲しい物はすべて手に入れ、願うことはすべて叶えている。そんな人だっていると思うのです。わたしは最近、スーパーで200円のバナナが半額の100円になっているのを買いました。とてもそれが嬉しくて完熟バナナということで美味しくいただきました。わたしは甘えた生活をしている、のかもしれない。けれど、それだってどこかに線を引いた上での話です。甘えた生活と甘えていないまともな生活との間に線を引く。けれど、その線は誰が引くのですか? あなたがですか? 世間が、社会が、常識が、ですか? それって神様のように絶対的な基準なのですか? そんなことを人間ができるのですか? そうすることが人間に許されているのですか? いやいや、星さんヒステリックなPTAのおばさんみたいになってるよ。キーキー。ま、ともかく毎日幸せなら難しいことは置いておいて万事オッケーじゃないかと思うのです。人生の意味が分からなくても、生まれてきた意味が分からなくても、別にそれは問題ではないのです。何のために生まれて何をして生きるのか、だなんて、何のために生まれてこようとも、何をして生きようとも別にいいじゃないですか。生きたいように生きましょうよ(自他を傷つけないという条件付きで)。やりたくないことをやらないようにして、やりたいことやるようにしていけば、人生は充実してくるし張り合いも生まれてくる。ただ、それだけのことなのかもしれません、ってね。
 おっ。うげっ。ここまでで4600文字あまり。お付き合いいただけた猛者がどれくらいいるのかは存じませんが、どうもありがとうございました。読んでいただいて。読んでくださって。
 前にも書きましたけれど、幸せな人は人生の意味や目的を問わない、のかもしれません。でも、最近わたしの人生の目的は天国へ行って憩うことかヨガを深めていって悟ることか、どちらかなのだろうと思うようになってきている、ということを私事ですが、ここに書き残しておきたいと思う次第です。
 とまとまりました? いやはや、1時間半あまりのこの文章の旅路を満喫いたしましたので、このへんで終わりにさせていただきたいと思います。ぐだぐだ書きました。まとまらなくてすみません。以上。



日本ブログ村のランキングに参加しています。
記事をいいなと思っていただけましたら、
下のバナーをポチっとクリックしてください。
クリックしていただけますと励みになります。
よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました