働いていないわたしが思うこと

いろいろエッセイ
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 先日、ある人と話をした。その人とは割合親しくなってきていて、そんなわけでわたしのことをいろいろと聞かれたんだ。
 開口一番、「お仕事は何されているんですか?」こ、これって働いているという前提で来る質問ですよね。「お仕事されているんですか? されているとしたら何をされているんですか?」ではなくて、何のお仕事か、と来る。
 何かなぁ、これってハラスメントだと思うんですけどね。結婚してますか、とか言うのがセクハラだとしたら、これだって立派なハラスメントですよ。でも、40代くらいのいい年したおじさんともなれば当然聞かれる避けては通れない質問のようなのだ。
 と聞かれれば「仕事はしていません」と嘘をつくのも良くないので答える。でも、その時の相手の表情とかリアクションが気に入らなかったとかそういうことではないんだ。わたしが嫌な気持ちになったのは、「ご兄弟はいますか?」と聞かれて、こうこうこうで、結婚して東京の郊外にマイホームを建てました、みたいに言ったらすごく感心したようなリアクションをするんだ。でも、わたしにとってはそのご兄弟が嫌いな奴でいい思い出は大人になってからはほとんどない。が、やたらとその人は「立派だ、立派だ」みたいなことを言う。「東京の郊外でも東京に家を建てるなんてすごいですよ」とか言うわけなんだ。
 っていうか、結婚するもしないも、仕事をするもしないも、家を建てるも建てないもその人の自由じゃないかと思うんだけど、その人にとってはとにかくそのまだ会ってもいないわたしのご兄弟が立派な人に思えて仕方がないらしい。
 何かなぁ、何か違うと思うんですけど。人間を判断する時の基準のようなものが雑だと思うんですけど。その人、というか人間の価値って何かと言えば、本当に肩書きとか社会的地位とか持っているお金の多い少ないとか、どんな仕事をしているとか、そういうことではないと思うんだ。そうではなくて、ただ裸になって何も持たず、何も身に付けず、ただただその人だけになったその時に何を語れるか、どのように振る舞えるか、なのではないかと思う。無一文になって、無一物になって、ただただその人。ヨガとか茶室を思い浮かべてもらえばいい。ヨガだったら本当にどんなに有名な大企業の社長だろうが実業家だろうが、どんなに稼いでいようが、マットの上で己の肉体だけになってヨガをしなければならない。その時、社会的地位とかお金だとか、そんなことはどうでも良い。ただ、ヨガをやる。それだけ。茶室にしても茶室には刀を持ち込めなくて、そこでもただただその人としてお茶を飲む。
 わたしたちは権威とか肩書きというものに滅法弱い。でも、それが本質ではないと思うんだ。そうではなくて、ただその人自身がどういう人で、すべてを取っ払った時に何かを示せるかどうか。何が残っているかということ。
 そのわたしのご兄弟にやたらと感心して肩を持とうとしたその人は、そのわたしのご兄弟とやらがどんな人なのか知らない。会ったことも話をしたことさえもない。でも、立派なのだとほめる。一方、今話をしているこのわたしは仕事をしていなくてということでほめない。たしかにわたしの人格的なところがほめられたものではないからほめないのであればまだ分かる。でも、仕事をしていないということだけで尊敬できない、ろくでもないと決めつけられる。でもね、わたしにはわたしの歴史があって、吃音で大変だったり、統合失調症との関わりの中でそれなりに苦しい思いだってしているわけ。過去には何度か自殺未遂だって現にしているわけだし、それが全く取るに足りないほどくだらないかと言えば、そんなことを言われる筋合いなんてさらさらないし、詳しい話も聞かないでわたしの人生を否定されるのは嫌だし怒りすらわいてくるんだ。
 やっぱりこの世の中には労働、お金を得ることが素晴らしいという宗教のようなものがしっかりとある。わたしはそういった宗教があまり好きではなくて距離を置いている。労働は尊いだろうし、働いている人を立派だとも思う。でも、だからと言って必ずしも働いていない人がみんなダメでちょっとな~というわけではない。働いている人でもダメな人はごまんといる。お金をたくさん稼いでいる人でダメな人だっていると思う。何でもお金で解決しようとしたり(金さえ払えば何でもできて、何をやっても許されると思っている)、人を平気で傷つけても反省すらしなかったり、社会的弱者なんて働いてないだけのお荷物なんだからいなくなった方がいいと思うような人。
 真面目に毎日働いている人から見たらわたしのことを「いい気なもんだよ」とか「社会人としての義務を果たしていない人」というように見えるかと思う。でも、わたしは働いてはいないけれど24時間生きている。24時間365日生きているし、生きてきた。この「生きる」という立派な仕事をやめたくなったりしたこともあったけれど、それでも懸命にやめないで続けてきた。まずは、これだけでも「よくやっているね」とみんなでほめ合うことが必要なんじゃないかと思う。
 誰々さんは仕事もしないで毎日お酒ばかり飲んでいる。誰々さんは仕事に行かずに毎日パチンコばかりしている。誰々さんは働かないで毎日ネットでアダルトサイトばかり見ている。
 良くはないのかもしれない。世間一般から見ればダメな人で、ダメな大人だろう。でも、彼らは生きているじゃないか。本当は死にたいくらいつらいのに、それでも生きるという仕事をやめないで懸命に生きているじゃないか。改善した方がいいのは分かるけれど、それでもまずは良しとしよう。とりあえず、今を良しとしようよ。
 こういう言い方をするのもどうかという気がするけれど、どんなに長時間働いている人も何も働いてない人も毎日24時間生きているだけだと言うことができる。その24時間、何をして生きるのか。生きていくのか。それは各人に委ねられている。どんなにお金を稼いだ人も、稼いでいない人の何倍、いや、何千倍、何万倍のお金を得ようとも結局24時間365日の生きるという仕事をしてきただけでしかない。稼いでいない人の何千倍、何万倍もの長い時間を生きたということではないのだ。お金を稼ぐ。それがそんなに偉いのか? 自分の持ち時間を使ってそれを効率よく換金できることがそんなに偉いのか?
 こんなことをつぶやいてみても多くの人は反発することはあっても共感してはくれないだろう。実際に働いてみてから言え、と言われるのがオチだ。そうだとしたら、何も多数の賛同とか賞賛なんて得なくたっていい。労働を神聖視してお金を礼賛する人たちはその人たちでつるんでいてくれればいいし、そうなった時にわたしはそちらにはいたくないなっていうだけの話。
 仕事をしていて成功している人はそれをどうかこれ見よがしに見せびらかさないでほしい。もうあなたは社会的な地位も立場もあって強いんだ。だから、弱者をこれ以上責めないでほしい。
 ちなみにわたしの生き方、面白いと思いません? と同意を求めなくても毎日面白くやれていますので大方満足しております。逆にわたしのご兄弟の生き方こそ、わたしには理解できないし、面白いとは思えないんだな。でも、別に誰かを否定する必要なんてないのかもしれない。その人がそれでいいと思っているんだったらいいんだから、ね(自他を傷付けずにという原則付きで)。とりあえず、今んところはわたしは良しだな。



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