なぜ悪があったのですか?

 わたし自身、まわりのことがとても気になるたちだと思う。人が何をしていて、どの程度まで到達できていて、何がまだできていないか。そんな調子で絶えず他の人の様子を窺っている。
 頭では分かっている。十分に分かっている、つもりだ。他の人と比べることに意味などなくて、そんなことをし続けている限り、いつまで経っても幸せになれないということを、だ。でも、分かっていながらも、どれだけそのことを自分に言い聞かせようとしても、山にでもひきこもって生活しているわけではないから、どんなに情報を入れないようにしても情報は入ってくる。新聞には今日もキラキラした人たちの姿が所狭しと載っていて(本の宣伝とか、ある人や団体の活動の様子とか)、否応なく自分と彼らを比較せざるをえないような状況を生み出してしまっている。
 というか、心がけ一つなのかな。「わたしは他の人と自分を比べません。一切、比べようとは思いません」って宣言すればいいのかな? そうすれば、他の人のことが一切気にならなくなるのだろうか。でも、考えてみればこの他人と自分を比べてしまうことは本能なのかもしれないな、とも思ったりする。まわりのことが一切気にならなくなったら、それこそまさに悟った人だと思うし、そんなことは凡人にはおそらくできない。本能なのだろうか。さがと言ったらいいのだろうか。
 他者と自分を比較することがない世界ってどんな感じなんだろう、って思う。その世界にはおそらく競争がないんだろうな。競争がなくて、ただ各々がめいめい好きなことをやっているような世界なんだろうな。ドラえもんの秘密道具の「もしもボックス」で「もしも人と比べることがない世界になったら」って世界を設定したらこんな競争もないマイペースな世界にきっとなることだろう。そして、ひたすら自分を超えること、成長していくことに全身全霊をかけて挑んでいることだろう。つまり、自己新記録を更新することにしかみんなの興味が向いていない世界なのだ。
 競争の何が問題かと言えば、勝つことにどれだけの意義があるの、っていう根本的な話になってくる。「わたしは勝ちたいんです。とにかく理由はないけれども勝ちたいんです」という人をわたしは否定するつもりはないし、そういう人はまぁお好きにどうぞ、ってな感じなんだけれど、そもそも勝つこと自体には何の意味もないとわたしは思う。むしろ勝つことに伴う副次的な効果のほうに魅力があり価値があると思うのだ。何かに、誰かに勝とうとすることによって、その人が成長してレベルが上がっていくのだ。誰々には負けたくない、と踏ん張る時、誰々よりも高いレベルにまで到達することができる。そして、その頑張った内容が人々の役に立つものであれば、人々がその恩恵を受けることができる。その人が頑張った果実には価値があり意味がある。けれども、わたしが言いたいのは誰々に勝つとか一番になること、それらは単なる結果であって、それ自体はただ優劣や序列がついているだけで全くもってして意味がないということだ。1番、2番、3番という序列。あるいは、AさんはBさんよりもたくさんお金を稼いだという優劣。以上、でしかないのだ。
 競争をすれば、ほんの一握りの勝ち組の人たちが大勝利を収めて、あとはそれに従うか負け組集団。誰かが勝てば多くの人が負ける。だったら、その負けた人をどんなに頑張っても勝てない人をどのように救済するのか。そのための手段として用いられてきたのが、と言ってしまうのは語弊があることは重々承知ではあるけれど、宗教だと思うのだ。マルクスが「宗教はアヘンだ」って言ったその言葉の意味はここにある。負けた人、勝てない人を麻薬で鎮めてその悔しさを麻痺させてどうでもよくさせる。そのために宗教が用いられてきたと分析するのだ。
 でも、宗教が権力者によって利用されてきたことは事実としても、結局キリスト教においても負け組が勝ち組になるんだという論理がしっかりとあってその理屈が貫かれているんだ。聖書には、金持ちが死後苦しんで、一方貧しい人が天国で素晴らしい祝宴に与る、という話がしっかりとある。でなかったら、納得がいかないでしょう、っていう話だからだ。ここでは、その金持ちが地獄へ入り、貧しい人が天国へ行くというそのことが事実かどうかは争わないようにしよう。わたしはそれが事実だと信じたいと思っているし、おおむね信じてはいる。つまり、負け組が来世では勝ち組になるというのがキリスト教の理屈なのだ。
 じゃあ、何もしなくても天国に入れて救われるのだからそれでいいかと言えば、わたしはそうではないと思う。神様から与えられたこの人生という長くて100年あまりの時間をじっくりと味わって生きていくべきだと思うのだ(わたしはあまり「べき」という言葉は好きではないけれどあえてそう思うので使った)。でなかったら天国へすぐにでも行きたいからと死に急ぐことになりかねない。そうではなくて神様はわたしたちに幸せに生きてほしいと願われている。そして、ご自分と共にしっかりと歩んでほしいと願われているのだ。
 最初の話を神様の視点から考えてみるなら、神様にとっては誰が優れていて誰が劣っているなんていう視点ではないと思うんだ。万物を造られたのが神様なのだから、すべてが尊い尊い宝石のようなものであって、きっと神様にとっては万物が宝物なんだろうなって思う。
 でも、だったら何でこんな貧富の格差のある世界を神様は容認されているのか? わたしにはもちろんそのことは分からない。だから、最後の審判の日にイエスさまに「なぜ悪があったのですか?」と聞こうと思っているんだ。悪と言ってもいいような貧しさがなぜあったのか、この「なぜ悪があったのですか?」の問いで究極的な最終回答がきっと与えられる。マザー・テレサは貧困は人間の責任だと生前言っていたけれど、わたしはそれだけだとは思えない。神様にも責任があると思うのだ。だからこそ、それならばなおさら先の問いが意味を持つ。
 貧困、格差、犯罪、災害その他もろもろの悪がなぜあったのか、最後の日にきっと答えが与えられるものだとわたしは信じている。だから、わたしの心はこれらによって信仰が破壊されることからは免れているのだ。問いに答えていない。問いを放棄している。もっともだ。しかし、今のわたしにはこれ以上の名案はない。イエスさまがきっと教えてくださる。だから、待っていよう。

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