人肌

いろいろエッセイ
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 昨日、『防衛白書』を読んでいてわたしはここまで進んできているのかと驚いてしまった。何でも科学技術が発達してきていて、戦争が無人化する方向へとなってきているらしいのだ。無人機と呼ばれる人が乗っていない戦闘機。現段階ではまだ有人機(人が乗っている飛行機)が無人機を率いて、という形らしいのだけれど、このまま技術が進歩していけば無人機だけで敵国へと戦争に行くことも可能になるのではないか。で、その無人機がおびただしい群れを作って襲来してきて、それを防ぐ側も敵機の遠隔操作を狂わせるように働きかける。こうなるといかに高度な技術を駆使できるか、ということが戦争に勝つためには必要になってくる。
 極超音速兵器、高出力エネルギー技術(電磁レールガン、高出力レーザー兵器、高出力エネルギー兵器)、高出力マイクロ波技術、などなど防衛白書には最新技術がこれでもかとばかりに軍事に利用されていることが書かれている。
 技術が進歩する。それはいいことだ。わたしたちの生活が豊かに便利になっていくのだから。でも、こうした最新技術が用いられるのが兵器だというのが実に皮肉な話ではないかと思う。結局、人間の欲望に最終的には使われるようなのだ。みんなが平和に過ごすために技術はあるのだと思いたいのだけれど、科学というものは戦争と共に発達してきたところがあるようで、これには実にはがゆいところがある。
 おそらくこれからの戦争は無人化していく。そしていわばテレビゲームのように現実感が希薄なものへとなっていく。うむ、憂慮を超えてこういったことを真剣に考えていかなければならないとわたしは思うんだ。
 で、何で冒頭からこんな話をしたかと言えば、こういう時代になればなるほど、かえって人の温もりが必要になるのではないか、ということが言いたかったからだ。人と人とのつながり、愛し合うこと。それがなおさらのこと世の中が殺伐としてくればくるだけ求められるのではないかと思うのだ。
 わたしが誰かとつながっている時、そこには安らぎがある。そして、それはお金や物には換算できないかけがえのないものとして作用する。
 うちの庭のプランターのキャベツの前に座った時にも、何だかほっとする。「あぁ、キャベツさん、生きているんですね」とほっこりして日々の喧噪から解放されて心が安らぐ。冒頭の話も大事だとは思う。いかに国を守るか。人々の平和をいかにして守るか。そのために最新鋭の装備をして国を守り、敵国から攻められないように、抑止力を得るようにとの名目で強力な兵器を持つ。
 わたしは甘いのかもしれない。そんなお花畑の平和ボケでは国を守ることなんてできないし、そんな人ばっかりでは侵略を受けて自国が占領されてしまうよ、と。だから、ガチガチに武装して一分も隙がないようにしなければならない。そのためにお金がかかっても、それは必要な経費。国があるということ、それが何よりも大事なことではないか。
 たしかにそうだ。その考えはもっともでわたしが甘かっただけなのかもしれない。でも、そこに、そうした戦略と一緒に忘れてはならないものがあると思うのだ。それは、そこには人の肌のぬくもりを持つ生身の人間が生きているということ、生活しているということ。毎日、どうしたもんかと三度三度のごはんを食べて、排泄して、寝て、慎ましい生活を送っている普通の人がそこには暮らしているのだ。
 だから、そうしたことへの感受性というか配慮というか、ともかく防衛にはそうした存在への想像力が必要だと思うのだ。
 国を守る。何のために守るのか。それはみんなが笑って幸せに暮らし続けることができるようにするため。この一点に尽きるのだ。
 防衛白書を読んでいると、いつどこかの国から攻めて来られるんじゃないかと疑心暗鬼になっているような恐れの心がまざまざと読み取れる。そして、どこまでもどこまでも厳重に予防線を張って鉄壁の守りで万事に備えようとする。けれど、何だかそれに人々の肌の温もりは含まれていないようで、とても冷たく無機質だ。そんなこと言ってるから世間知らずで甘いんだ、とお叱りを受けることは確実だろうとは思う。けれど、わたしが言いたいのは防衛のための防衛ではなくて、人々の平和と幸福のためにこそ防衛があるっていうことなんだ。人の温もりを守るためにこそすべてのものがあると言い換えてもいい。
 世の中が無機質でドライで合理的になればなるだけ、その一方で人の温もりが必要とされる。果たして今、日本人は幸せだと言えるのだろうか。情報技術がここまで加速して成長してきたけれど、本当にそれによって幸せになったのだろうか。わたしはなっていないと思う。かえって、負の側面が表に現れてきたんじゃないかって思っている。
 わたしが不調になるのは大抵パソコン絡み。だからと言って、これを一般化するのは乱暴かもしれないけれど、多くの人たちも同じくデジタル機器による不調を抱えているんじゃないか。わたしは思う。今の人は画面を見過ぎなんじゃないかって。このブログだって画面越しに読んでもらっているわけだから、明らかに矛盾しているけれど、それでも画面を見過ぎではないかと言いたい。
 わたし自身もついついパソコンなどでネットをやり過ぎてしまう時が今もままある。そうなるとどうなるのか。生活がおろそかになってくるのだ。そして、どうでもいいネットサーフィンに中毒しているような状態になって、ただただ無為な時間を過ごしてしまう。そうした時間を後で振り返ってみると、猛烈に後悔する。あぁ、何て無駄な時間を過ごしてしまったんだろうって。この時間があったら手の込んだ料理だって作れたし、勉強だってしっかりと時間を取れたし、散歩やヨガをやっていれば気分だって晴れやかになっていたに違いない。が、無為なネットをやってしまったがためにそうした時間はなくなってしまい、時間だけ失ったわたしがいる。
 ネットを長時間やってしまった後にはそれを補おうとするかのようにとても人恋しくなる。ネットで満たされなかった気持ちを人肌のあるもので埋めようとするのだ。人肌ではないけれど、キャベツの前に行って30分くらい座っていると気持ちが癒されてくる。二階にいる母のところへ行って他愛もない話をすると心が充電される。こんな感じで、ネットでは人肌を埋めることはできないんだと痛感する。画面越しでは感じられない温もり。あたたかさ。安心感。そうしたものがリアル(ネットではない現実)にはある。わたしは思うんだけれど、本当の安心感とか満足感ってネットでは得られないんじゃないかな。やっぱり、ネットのように視覚だけではなくて、五感を使って感じてこそなんじゃないかな。ともすると、わたしたちは物事を迅速に済ませることだけしか考えなくなってしまう。いかに省エネするか、ということばかり、いかに合理的にやるか、ということばかり考えてしまう。でも、それは違うんだ。合理化できるところは合理化してもいいとは思うんだけれど、してはいけないところはしない方がいいんだ。
 などと軍事に絡めながら、わたしは人肌の持つ可能性について開眼させられたのだった。人間としての自然な姿であり、本能なのかもしれない。ネットではなく、リアルを大切にしていけたらと強く思うわたしなのであった。

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