すべてが波だとしても

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 今朝はなぜか気分が晴れなかった。気持ちがどんよりとして重く、やる気も起きず、わいてくるのはネガティブな思考ばかり。そんな時にわたしはどうするかと言うと瞑想をする。
 が、瞑想をしたことによってかえって気持ちがどんより沈んでしまった。というのは、すべてが波のように思えてきてしまったからだ。わたしが以前書いた記事に「波」というそのものズバリなものがあったのだけれど、瞑想をしていくと最終的には波だということで落ち着いてしまうようなのだ。
 わたしたちは日々生きている。呼吸をして、食事をして、排泄をして、経済活動にも参加して、ともかく生きている。森羅万象が波だという思想。これは強力な思想ですべてをひっくり返す。と言うよりは無力化する。それはまるでちゃぶ台返しでもするかのようで、今まで順調に問題なくやってこれたこととか、やってきたことなどを鮮やかに無力化、無意味化する。
 わたしたちは生きている。そして、毎日1ミリでもいいから向上しようと頑張っている。昨日よりも今日。今日よりも明日と成長していこうとする。が、波の思想はそうした進歩的な人間に「何のために頑張ってるの? それって所詮波なんじゃないの?」と厳然たる事実を突きつけるのだ。
 波はたしかに波で存在している。少なくとも波である時には波で波をしている。けれど、すぐに消えてしまう。それは泡沫(うたかた)で気泡のような、砂のお城のようなもの。わたしたちは堅固なものをあらゆる領域において拵えようとするけれど、すべてが波だと喝破する時、たしかなものとか堅固なものは存在しないのだ。いやいや、堅固というかしっかりとしていて揺らがないものはあるよ。たとえば、自分という存在でしょう。自分の家でしょう。自分の持っているお金でしょう。などと訳知り顔で言う人がいるかもしれない。しかし、自分という存在であってもせいぜい数十年、もって100年で死ぬのだ。自分が死ねばお金とか家とか何だかんだ持っているものだって意味をなさなくなる。わたしが言いたいのは数十年とかそういうスパンの話ではなくて、もっと根源的なことなのだ。この宇宙においてわたし(とかあなたとか)が波のようにすぐに消えてしまうものだとしたら、そうした存在だとしたら意味があるのか、という話なのだ。いやはや、意味ですか。結局、星さんは意味とか価値につまずくわけです。
 こういったことを考えていくと、何のために毎日進歩向上するために精進していくのかが分からなくなってくるのは言うまでもないことだろう。どうせ死ぬのに、どうせ波のようにすぐに消えてなくなるのになぜ頑張るという話なのだ。わたしのイメージとしては人間はすべて死ねば骨になる。どうせ、と言うと言葉が悪いけれど、わたしたちは一抹の波しぶきでしかない。打ち寄せたかと思えば、もう次の瞬間には消えて海水になっている波でしかない。
 この波という思想に抗って生きていくのはなかなか難しい。わたしたちは瞬間のような存在だとも言えるからだ。宇宙の歴史の前ではわたしの存在は瞬間的な光のようなものでしかない。光。それも1秒にもならないような光。波、瞬間、光。わたしたちにとってこの世は、この生は堅固なものではない。
 わたしは言うまでもなく意味がほしいのだろう。堅固な、しっかりとした、何物にも壊されない意味や価値が。
 わたしはキリスト教徒だから本来であればキリスト教的な生き方を自分のぶれない軸として持って、それに従って生きていくのが筋ではないかと思うし、それがもっとな生き方だと思う。でも、ギリギリのところでキリスト教の言っていること、主張していることが本当なのかなと思ってしまうところがあって100%盲目的に信じますというのは難しいのだ。わたしにはイエスさまや神様がいる。共にいてくださっていて、この瞬間にも見守っていてくださっている。ここまで懐疑的になってしまったのだから、処方箋は、それも決定的な処方箋はわたしの場合にはキリスト教的な死生観ならびに生命観を拠り所とするしかないのだろうという風に思えてきた。わたしはキリスト教で行く。そう決意して、それだからこそ洗礼だって受けたのだ。ぐらついて揺らぎ始めたらまた出発点に戻る。信仰の出発点に戻る。と言いつつももしかしたらキリスト教が間違いであったことが死後に分かってしまうのかもしれない(が、死後に虚無となり分からずじまいなのかもしれない)。でも、賭ける。信仰は賭けのようなものであって、一発逆転の大ばくちなのだ。
 何だか自分で自分を説得しようと強引に説き伏せているように見えるかもしれない。たしかにそうなのかもしれない。でも、今気が付いたのだけれど、この世を、この生をより良く生きることが肝心要なことなのだと思う。より良く生きる。それに意味があるとかないとか、そういうことは各自が、この場合には自分自身であるわたしが判断すればいい。しかし、どうせ生きるのであれば(どうせとか言う言葉は使わない方がいいかも)楽しく生き生きと充実させたいものだと思えてきた。人生は波だ。人生は牢獄だ。人生は苦役だ。そんなことを考えて、人生を意味がないものだとか悲観してしまったりしたら、この人生を与えてくださった神様に申し訳ない。神様はわたしにこの人生を楽しんでほしいと思われていることだろう。そして、わたしの幸福を誰よりも願われていることだろうと思う。
 神様、あなたから与えていただいたこの人生を、そして人生の時間を大切に使わせていただきます。
 波。わたしの肉体、精神、思考、ありとあらゆるものが波でしかなくても、わたしが生きているということは確かなことなんだ。瞬間でしかないのかもしれない。一瞬、光ったかどうかという光でしかないのかもしれない。けれど、たしかにここに存在しているんだ。あるいはすべてが幻でしかなかったとしても、わたしにはたしかにこの世界があるように思えるんだ。だったら、この世界が存在しようがしなかろうが、別にそんなことはどうだっていいじゃないか。わたしがこの世界に生きていると思えるのならそれで上等。
 光が、光が見えてきた。明るくなってきた。
 波しぶきとして消えていくのなら、鮮やかな波しぶきとして現れて、そして消えていきたい。それがせめてものわたしの願いだ。まるで打ち上げ花火のような、そんなたしかな瞬間でありたい。そして、神様と共に、この瞬間かもしれない束の間の時を、つまりは人生をめいいっぱい楽しんでいけたらと思う。

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