最期に骨になるのなら

キリスト教エッセイ
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 1時間ほど前に祖母の葬儀が終わった。ここ数日は葬儀屋さんとの打ち合わせが立て続けにあり、無事に終えることができるかどうかヤキモキしていた。でも、無事終わった。一件落着。星さん、すこし休もうと思う。
 さて、今日の葬儀で思ったことや感じたことがあったので、率直に書こう。
 とにもかくにも今日一番強烈だったのが、祖母の骨だった。人間、最後は死んで骨になる。そのことをしみじみと感じた星である。骨になる。人間何をやったとしても必ず死ぬ。100%死ぬ。このことは自明のことであって指摘されるまでもない。けれど、そこからもう少し、いや一歩進んで、人間何をやったとしても骨になるんだとわたしは言いたい。言いたいというくらい、祖母の骨はわたしに強烈に迫ってきた。
 骨になる。どんなことをやっても骨になるのだから、人生の恥はかき捨てみたいなもんじゃないか。生きていればいろいろなことがある。穴があったら入りたいと思うくらい恥ずかしいことや後悔することをやってしまうかもしれない。でも、骨になる。骨になるんだ。だから、誰かに迷惑をかけるとか傷つけるとか、あるいは自分自身を害するなどといったことはしてはダメだけど、それ以外のこと。それ以外のことだったら別に大したことないような、そんな気がしてきた。祖母の真っ白な骨を見ていたら。
 だから、何かやりたいことがあったら死ぬまでに、骨になる前にやっておきたいなぁって強く思った。逆にやりたいことやらなかったら損みたいな、そんな感じもしてきたから骨のもつ力にはすごいものがある。
 骨。骨には何物も寄せ付けない説得力がある。かっこいいとか美人だとか頭がいいとか運動ができるだとか、そんなこと骨になったらどうでもよくなる。そんなことどうだっていい。それよりも、自分が本当に満足して人生を終えることができるか。やり残したこと、悔いはないか。そのことの方が何百倍も大切ではないか。祖母は骨になってそんな大切な生きる上での知恵のようなものをわたしに身を持って教えてくれた。
 わたしがやりたいこと。そうだなぁ。まずは女性とお付き合いしてみたい。で、ゆくゆくはムフフなことができたらいいな、などと下心満載の星なのだ。スケベ心丸出しで申し訳ないのだが、性は人間に生きる活力を与えるものだと思う。それしか生き甲斐がないというのもまた問題で困るけれど、それでも性はわたしたちにとって避けては通れない問題であり、よりよい人生を送るためにはまさに潤滑油のようなものだ。だから、性欲? しっかりありますのでご安心のほどを。
 それからもう一つやりたいことは文筆活動だ。そうだなぁ。死ぬまでに小説を300作くらい書き上げたいな。それから、何か関心のあるテーマについて書けるものなら本も書きたい。
 それから、それから。キリスト教を追究していきたい。もっとキリスト教のことを知りたいし、またそのキリスト教のことを絡めた小説なり、論文なり、エッセイなりが書けたら申し分なしだ。
 さらに気象予報士と行政書士になりたい。この2つの資格、取りたいんだよなぁ。
 他にはキリスト教とも関連するのだけれど、聖書語学をものにしたいな。ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語。そして、専門的な神学書を読むために英語もできるようになりたい。
 最後に骨になるのなら、骨になる前にやりたいことをすべては無理にしても多くをやっておけたらと思う。
 死を目前にして「俺の人生、一体何だったんだろう。こんなはずじゃなかった」と後悔しないよう、やりたいこと、やれることを自分なりに懸命にやっていきたい。で、骨になって魂が天国へ行くとしたら、その時は天国で憩いたいな。そうしたら、神様のもとで永遠に礼拝し続ける新たな人生が幕を開ける。そして、祖父母やおそらく母、ならびに先立っていったペットたちとも再会する。それも嬉しいけれどもっと嬉しいのは神様、ならびにイエスさまと会えること。それも直接、ね。
 人生を謳歌してやり尽くして完全に走り切りたい。何も後悔することなく死んで行けたら最高だな。
 そんなことは無理なのかもしれない。でも、方向性としてはそんな感じでやっていけたらと思う。祖母の葬儀を通してこんなことを考え思った星なのであった。おばあちゃん、ありがとう。気付き満載の一日でした。チャンチャン。

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