言葉にならないもの

いろいろエッセイ
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 言葉にならないもの。そういうものを記録したいと思う。願う。それは、そもそも無理なことなのかもしれない。不可能なのかもしれない。だって言葉にならないものなのだから。
 今、わたしが感じていること。これは言葉にならない。まずもってして言葉にはならない。言葉は便利な事象変換器ではない。
 今、わたしの目の前には猫のルルがいる。それを言葉で伝えようとする。必死になって伝えようとする。けれども、この光景を完全に文章において再現することはできない。
 では、映像だったら可能なのか? それも無理な話である。今、わたしが感じている質感、温度、それらを伝えることはできない。
 でも、いつか科学技術がどこまでも発達していったら、わたしが今ここで目の前にいる猫のルルと三次元の空間、それから質感、温度、などなど微細なところに至るまで再現できるようになるかもしれない。
 それでも、できないだろうことは、わたしがどのような感覚で、何を思い、何を考えているかについて、今ここにいるわたしをわたしとして体感すること。これはできない。いや、科学技術が発達すれば・・・、できるかもしれない。あなたがわたしになって、わたしがあなたになる。それを体験できる。素敵は話なのだろうか。
 いやはや、どこか抵抗がある。科学技術が・・・って、たしかにそうかもしれないけれど、そうなるとわたしが分からなくなってくる。わたしもあなたも溶け合って一つになっていくのだろうか。そして、そんな世界をわたしたちは望むのだろうか。
 言葉にならないもの。それはわたしが今感じているこの感覚。わたしがわたしであること。
 ところで、と言うのにはヘビーな話だけれど、ところで祖母の寿命が迫ってきた。予定通りに行くのであれば来月の5日か6日頃には亡くなる予定だ。まだ亡くなるような感じがしない。もしかしたら、もっと生きるのかもしれないという希望すら湧いてくる。医者の余命宣告は案外はずれるものなのだろうか。わからない。それはわからない。けれど、祖母がもう少しで亡くなるとしたら、祖母を見ることはもう見納めになる。
 祖母が目の前にいるということ。言葉にならない。祖母がいなくなって目の前に見えなくなること。これも言葉にならない。
 もしかしたら、すべてのものが言葉にならないものなのかもしれない。再現することのできない一回ぽっきりの、一回しかない、一回だけの出来事。だから、一期一会という言葉は的を射ている。その瞬間のその人に会えるのはその瞬間だけなのである。そう考えるとわたしが生きているこの瞬間、瞬間が何かとても尊いものに思えてきた。と書きながら涙ぐんでいる、涙ぐみ始めているわたしである。
 というような感じで猫のルルを眺めていたら、「何だニャ?」と少し怪訝そうだ。このルルだって明日ではないけれど、いつかは死ぬのだ。尊い。そして、有り難い。生きていることが、猫のルルが生きていてくれることがこんなに愛おしいとは。
 相変わらずネガティブで自己中で自分と他人の境界線が曖昧で侵入的でおそらくこの調子が続くであろう祖母ではあるが、一期一会だと気を取り直していきたい。
 言葉にならないものを「言葉にならないもの」と言葉にしていることはしているが、やはり言葉にはならないものなのである。だから、言葉にならないものなのである。
 言葉からこぼれ落ちる豊かなものを感じ取りつつ、それでも言葉にならない日常や考えや感触を言葉にしていけたらと思うわたしなのであった。言葉にならないからこそ、それが不可能であるからこそ、逆説的だが言葉にしていこうとするのである。そこに人間らしい営みがあるように思えてならない。
 毎日のありふれた出来事を味わっていきたい。

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