みんな違ってみんないい

キリスト教エッセイ
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 わたしたちは言うまでもなく、自分のやっていることが正しいのだと思っている。あるいは、そこまで思えなくても思いたいものだと願う。自分のやっていることが100%誤りであって間違っているのに、それをやっている人というのはあまりいないのではないか、とわたしは思う。だから、みんな人それぞれ100人いれば100通りの論理があり、正しさがあるのだ。
 みんな違ってみんないい、という言葉がある。わたしはこの言葉に完全に同意することはできないけれど、それでもおおむね賛成だ。
 わたしはある時期、熱狂的な信仰主義になってしまっていたことがある。保守的なキリスト教と言ったらいいだろうか。それも原理主義に限りなく近いような。とにかくキリスト教の神様を信じることが何よりも素晴らしく大切なことで、それ以外の信仰は全部論外。神様を信じない人は失格者。その考え方はとても分かりやすくて、世界を単純化してくれる。神を信じるか、否か。それもキリスト教の神様を信じるか、否か。
 そんな感じの信仰を持っていたんだけれど、教会を変えてからわたしの信仰も変わっていった。わたしが以前の考え方を今行っている教会の聖書研究会の皆がいるところで、牧師にぶつけてみたことがあった。すると、自分の信仰を他の人に押し付けようとするのはよくない、と諭されたのだ。それにキリスト教の神様はクリスチャンのためだけのお方ではなくて、世界中のすべての人のための神様なんだから、とも牧師から言われた。そのガチガチではないやわらかでしなやかな考え方にわたしは感化された。もちろん、保守的なキリスト教とそうではない自由主義的なキリスト教と両者は併存しているのは事実なのだけれど、何だかわたしはその自由な方の影響に動かされ始めていて、以前とは変わってきたように思う。
 保守的なキリスト教も行きすぎると原理主義になってしまい、それはもうすでに律法主義に陥ってしまっている。
 律法。神様からの命令。それを何が何でも守らなければならないとすると、とても窮屈になる。お前は今日、礼拝を休んだな。酒を飲んだな。タバコを吸ったな。ポルノを見たな。無駄なことに時間を使ったな。つまり、お前は神様にふさわしいことをしていない。できていない、と断罪するのだ。で、行き着く先は、起きている時は絶えず祈りを捧げて神様のことを考え続けなければならない。一瞬たりとも何か別のことを考えているようであってはならない。苦しいな。そして律法主義はどこまで行っても平安が得られないのである。神様に従うとは一体どこまでやったら及第点なのか。それがはっきりと示されてはいない以上、どこまでもどこまでもやらなければならない。そして、どこまでやってもまだできる、足りないのではないかという疑いが伴う。普通の人から見たらこの人はもうすでに立派な聖人だと思うことだろう。しかし、この人自身は「足りない、足りない。神様のために全然生きることができていない。捧げることがまだまだ足りない」と不安な状態を脱することができない。要するに、どこまでやってもよしにならないのだ。
 とは言えどもじゃあ、それだったら律法なんて無視して好き放題生きていいのか、と言えばそれもまた極端すぎる。わたしはバランスじゃないかなぁって思う。律法主義に陥ることなく、しかし放縦主義にもならない。そのほどよいところが理想だと思うようになったのだ。ほどほどに神様からのルールを守りながら、ほどほどに自由に生きる。(もちろん絶対に破ってはいけない神様からの掟は破っちゃだめだけど。たとえば殺すなかれ、とか不倫とか。)
 神様が人間に自由意志をお与えになったかどうか、そのことについてはここでは突っ込まないことにしても、わたしたちに自由があるのだとしたら、それは神様からの素晴らしい恵みではないかと思う。(注:ここでは人間には自由意志があるんじゃないかという前提で話を進めているよ。)そもそも、規則を100%完全に守れ。守らなかったら罰する。厳守だ、というのであれば、最初から神様が人間を自由な存在としてはつくらずに、完全な操り人形としてつくればよかっただけのことだ。でも、神様はそんなことはなさらなかった。人間を自分の意志で考えて好きなように行動できる存在としてお造りになられたのだ。それに操り人形とまではしないとしても、自由に生きさせることがみ心ではなかったとしたら、人間は画一的にならなければならないよ。みんな同じことを寸分違わずまるで機械のようにやっているんだ。っていうか、もしそうやって窮屈な行き方をさせたいのであれば、一人ひとりを異なる個性を持ったユニークな存在としてつくる必要もないと思うけどな。
 冒頭で、みんな違ってみんないい、という言葉に完全には同意できないと書いた。それはやはり、人に迷惑をかけたり、自分自身や他者を傷付けたりすることは良くないと思うからだ。だから、そういうことをする人を「いい」と手放しでわたしは認めることができないのである。しかし、と思う。この言葉は神様が人間一人ひとりをどのようにお考えになっているかを明快に指し示すものではないか、と。いろいろな人がいる。なかには問題がある人もいることだろう。しかし、そうした人であっても神様が造られたのであって、神様にとっては大切な作品なのである。神様の作品。そう考えるとわたしは手放しですべての人を容認できないけれど、神様はもうすでに受け入れられているのではないか。みみっちいことを言われない神様である。神様にとってはみんな大切な存在なんだ。一人ひとりが特別な存在で、一人ひとりが愛おしい。だから、みんな違ってみんないい。
 わたしは神様ではないから、到底この神様の境地にはなれないだろう。やっぱり、どうしても自分を認めて愛してくれる人が好きだし、批判されたり毒づかれることは好きではないからだ。でも、神様はどんな悪態をついて「お前なんかいなくなれ」と言われても、変わらずにその人のことを愛し続けられる。そこが人間には真似できない神様のすごいところなんだ。
 わたしが生涯を終えるまでに、みんな違ってみんないい、と言えるようになるか、それは分からない。けれども、幸せの階段をどこまでも駆け上がって上っていくと、最後はそうした境地にたどり着くんじゃないかなっていう気がする。この世の悪をすべて赦し、それすらも抱擁することが凡人にできるか。まぁ、わたしには一生かかってもできないかもしれない。でも、そういう方向になっていけたらないいな、と思う。
 みんな違ってみんないい、か。深いな。

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