キリスト教とヨガが正面衝突

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 最近、『ヨーガスートラ』を読むようになり、インド的な考えにふれるにつれて、わたしの中で迷いのようなものが生じてきた。前通っていた教会の牧師がたしか「信仰の妨げになるような本は読まない方がいい」ってわたしにアドバイスしたけれど、キリスト教の視点から見たらこの『ヨーガスートラ』は完全に妨げになるやつだな。キリスト教とは異質な別の思想体系と言っていいかもしれない。
 そんなわけで、今わたしは信仰がぐらついてブレてきているのだ。素直にキリスト教の教えに従うことができない。そんな状況。
 果たしてどちらが正しいのだろうか。両方正しいということはありえないし、強いて言うなら両方間違っているのだろうか。どちらが正しいのか、と言うよりはわたしの場合、どちらが事実なのかということを知りたい。どちらがこの現実世界の真実なのか。そのことを知りたい。聖書にはこう書いてある。インドの聖典のヴェーダにはこう書いてある。こう書いてある、ということならいくらでも言える。たしかにそれは書いてあるのだから。でも、そのいくつかの書物同士が主張し合っていることが激しく対立するとしたら、やはりどちらかが誤っているか、あるいは両方とも誤りなのだ。少なくともヴェーダの世界観と聖書のそれが両立する。つまりは両方とも正しいなんてことはおそらくありえない。
 わたしは素直な人間だから、何かを言われるとすぐにそうだと思ってしまうところがある。が、両方からこうなんだと板挟みにされると困ってしまうのだ。宗教がキリスト教だけだったらどんなに楽だったことだろうか。何にも悩む必要もなくて、ただ言われるがままにそれを疑うことなく従ってさえいればいいのだから。しかし、今、わたしの目の前にはヨーガの教えとキリスト教のそれが対立して火花を散らしている。
 やはりこういう時は慎重に自分の頭で考えた方がいいのだろうか。自分で考えて、自分で判断する。そして、その責任を自分で負う。
 今までわたしはあまり考えるということをしてこなかったような気がする。流れに乗って、というか結構、まわりの状況に流されてはいないけれどそれでもおもむくままに来たようなところがある。わたしのキリスト教の洗礼を後悔しているとか、そういうことではない。ただ、頭を働かせて静かに落ち着いて考えてみる必要が今回はありそうだ。
 今回、一番ひっかかっているところ。それはヨガの思想とキリスト教、それぞれの世界観が決定的に違うところだ。
 ヨガ的な考えではわたしたちは本当のことに気付かない限り、グルグル、グルグルと輪廻して生まれ変わり続けるらしい。だから、真理に目覚めて迷いの輪廻から自由になって、本当の至福へと到達するのだ。そう教える。
 一方、キリスト教の教えでは輪廻などというものはない、と断言する。わたしたちの人生というのは誕生から死まで、そして終わりの日に復活して天国か地獄へ行く、で完結する。つまり、わたしたちの人生は1回だけなんだ、と力強く主張するわけだ。
 一言でわたしの疑問を言うなら、輪廻があるのか、ということだと思う。さらには、ヨガの思想にはカルマ(行い)の法則も出てくる。まぁ、それは置いておくとしてもこの世界観、完全に対立してますな。
 と思ったのだけれど、果たしてわたしがない頭でうんうん考えたところで答えは出るのだろうか。出ないんじゃないかって気がする。言うならば、この対立は仏教徒とキリスト教徒の思想的な対立に近い。双方がどんなに言葉を尽くして議論してもらちが明かないし、平行線のまま話は終わることだろう。
 と、母が二階から降りてきた。もう夕方の5時半。食事の時間だ。まぁ、あせらず、ぼちぼち考えていきたい。それにしても難しいですな。

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