ほどほど

「あの人がうらやましいな。あぁなれたらいいのにな。あの人にはきっと悩みなんてないんだろうな」。
 えてして、わたしたちは幸せそうな人を見るとこう思ってしまう。自分は悩みのかたまりのようで、幸せそうなあの人のようになりたい。その人のようになれば、きっと悩みとは無縁の生活、そして人生を送ることができるのだろう、と思ってしまう。
 けれど、よくよく話を聞いてみると幸せそうな憧れのあの人も悩みを持っていて人知れず悩んでいる、ということに気付かされる。
 わたしが憧れる人たち。それは一流大学の教授とか、一流の作家とか、一流のヨガの先生などなど。
 でも、悩みというものは、どんな人にも必ずあるもので、まとわりついているものだと思う。悩みの程度、深刻さ、困っている度合いなどは違うものの、みんな多かれ少なかれ悩んでいる。
 富んでいる人には富んでいる人の悩みがあって、貧しい人には貧しい人の悩みがあり、真ん中くらいの人にもその真ん中くらいに位置しているがゆえの悩みがある。わたしはこのことを知った時、何だか肩の荷が下りたというか、気持ちが楽になった。何だ、どんなに幸せそうで悩みなんてなさそうな人にだってそれなりに悩みがあるんだ。人間は悩みからは解放されず、生きている限り悩み続ける存在なんだ、ってね。どんなに物質的に豊かになろうとも、精神的に充足されようとも、それらが満たされればまた違う悩みが出てくる。欲しい物がすべて手に入ったとしても、そうすると今度はそれを失うのではないか、という恐怖が生まれてくる。だから、どこまで行っても、というか何をやっても、どんなに悩みから逃げようとしてもどこまでもどこまでも悩みさんは追いかけてくるんだ。
 でもね、わたしは悩みを消滅させる方法を一つだけ知ってるよ。それも完全にね。それは悟ること、解脱することではないかと思う。執着を捨てるんだ。完全に捨てるんだ。でも、これがまた生きているのに死んでいるようなそんな無の境地に至るわけだから、現世を生き抜いていかなければならない俗人には向かないだろうな。仏教の瞑想の本を読んでいると、瞑想をどこまでもどこまでも深めていって悟りを得る時、どうやらその人は社会的な意味で使い物にならなくなるらしいんだ。この世は単なる現象であって、それに執着することは意味がないと悟れば、いわゆるお金を得ることである生産活動には興味なんてなくなってそれらを放棄するし、もう死んでいるような心地に至っているわけだから生殖活動についてももはや興味関心はない。本には、出家するか死ぬか。その二択を迫られるような状況になるらしいとのこと。もうこうなったら普通の生活なんて送れないし、まさに世捨て人。たしかに悩みは消滅したかもしれないけれど、社会生活を普通に送れなくなっているわけだから、そのことが悩みだと言えば悩みだと言えなくもない。でも、本人は究極の境地に到達していて、そんなことは気にならない。ってこれって悩みがないってことになるんですかね?
 求めているものが手に入らない。あるいは手に入れているのであれば、それを失うのではないか。つまり、何かに執着すること。これが人間に悩みを生じさせていると仏教は喝破するわけだ。だから、それが手に入らなくても何も気にしないし構いませ~ん。今わたしが手にしているものを失っても何ら構いません。お好きにどうぞ~。みたいな感じだったら悩みなんて生まれてこない。あるがまま、流れるがままに任せているしなやかで自由な人はおそらく悩みとは無縁な人なんだろうな。でも、そういう人はそういう人でまた自分には大切な執着するものがないって悩むんだろうな(笑)。わたしにもこだわりが欲しいってね。執着がないことに執着して悩んでます、みたいな構図ね。
 執着は別の言葉で言うなら、こだわりとも言えようか。このこだわりがあること。これが生きているってことなんじゃないかって思う。こだわりがすべてなくなってしまったら、その人は無色透明の透明人間みたいになってしまうと思う。カレーが食べたい、本が読みたい、あれがしたい、これがしたい。要するにあれがいい、これがいい、あれが嫌で、これが嫌みたいなこだわり。それらがその人のカラーというか、その人らしさを形作っている。そのこだわりの複雑な組み合わせによって、その人が成り立っているんだ。何にどの程度こだわっていて、どういった種類のこだわりを持ち合わせているのか。それらによってその人の個性は出来上がっている。
 執着があり、悩みがあること。それは生きていることの証だと思う。煩悩まみれすぎるのも生きづらいけれど、煩悩がなさすぎても悟った人みたいになってしまって、それはそれでまた違った問題が生じてくる。わたしはほどほどがいいんじゃないかって思うんだ。煩悩に圧倒されてそれらに縛り付けられているのでもなく、かと言って達観しすぎているのでもなく、中庸。ほどほど。だから中庸のほどほどで生きていくとしたら、ほどほどの悩みをほどほどに抱えながら生きていくことになる。でもね、ほどほどっていい言葉だと思うんだ。暑すぎず冷たすぎず、まるで現在の地球と太陽の距離のようって言ったらいいかな。太陽が近すぎても灼熱で人は住めないし、遠すぎても凍えてしまってこれもまた人は住めない。適当、いい加減。何だか無責任な言葉のように思えなくもないけれど、本来はこれらはとてもいい言葉。適当、いい加減、ほどほど、ぼちぼち。この三拍子ならぬ四拍子揃ったところで、これらの言葉の尊さが分かる。
 どうしても人より秀でていたり、ずば抜けていたり、なんていうのをわたしたちは求めてしまうけれど、ほどほど、つまりは平凡にだって立派な価値があると思うんだ。とんがりたい気持ちは持ちながらも、まぁ、ほどほどでいいんじゃないの、とやっていけたらと思う星なのであった。

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