意見箱

キリスト教エッセイ
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 わたしがクリスチャンになってだいたい4年が経とうとしている。受洗までの期間を含めるとかれこれ今の教会には6年くらい通っている。その間、曲がりなりにも教会生活をしてきたわけであって、教会の行事やイベントやら何やら、または人の入れ替わり、立ち替わりを時間の流れと共に見てきた。
 そんな中わたしは思うことがある。それは教会って礼儀正しくて善良な人でないと居心地が悪いだろうということだ。
「え?」と思われる方が多いだろうか。それとも「あぁ、やっぱり」と思われるだろうか。でも、実態としては、と言うかわたしの実感としてはそんな感じがしてならないのだ。悪く言えばいい子でないといけない。いい子でいないと教会ではやっていくことができない。
 教会という場所はみんな平等です。牧師であっても信徒と同じく、全信徒祭司制のごとく平等です(わたしの教会の場合、プロテスタントだから)。建前としてはそういうことになっているし、そうでなければならないことになっている。しかし、実際には、と言うよりもわたしが感じるにはヒエラルキー(階層)がやはり厳然と教会にはあるように思えるのだ。牧師を頂点として、それに近いくらいのところに牧師夫人がいて、さらにそれと同じかそれよりも少し高いところに教会の役員がいる。そして、その下には平信徒の皆様がた。さらにその平信徒には平信徒で、いかに礼儀正しいか、敬虔か、人間的に尊敬できるかどうか、礼拝に真面目に出席しているかどうか、人格的に優れているかどうか、などによってまた漠然とではあるけれど階層ができている。
 こういった実感を勘違いだとか思い過ごしだとか言う人もいるとは思う。けれど、少なくとも集団というものがあれば、そこには人望があつい人とそうでない人が出てくる。はっきりと分かれるものなのだ。
 でも、実際はこうなっていても、こうではまずいのだ。と言うのも教会というのは本来どうしようもない人のためにあって、何も善人のためにあるわけではないからだ。
 教会は病人のためにある。イエスさまの教えを額面通りに受け取るならそのような結論に至る。けれど、教会には本当に問題を抱えた人はやってこない。その敷居の高さによってまず第一段階でふるいにかけられてしまう。で、何とか教会にやってきても教会の人たちが善良でまるで天使のように見えてしまって、後ずさりしてしまう。とてもではないけれど、こんな聖なる集団の中ではやっていけないと諦めてしまい、自分はこの場にはふさわしくないのだと思ってしまう。まるで聖人のような群れ。いい人の集まり。
 教会では何よりも謙遜であることが求められる。そして、従順で素直であることが求められる。頂点に君臨する牧師に楯突いたり、意見したり、批判したりなんていうことはもっての他で意見すら言ってはいけないような、そんな空気が漂っている。役員も同じで、彼らと実際に話をすると飾らない人柄で素晴らしいがゆえに役員に選ばれたのだと納得するのだけれど、そんな素晴らしい彼らにこんな自分ごときの意見を言えるかと言えばおそれ多くて気後れしてしまう。それに何か牧師を含め、役員などに意見をするということは当然その自分の発言に責任が生じることになるわけであって、その後の関係がぎくしゃくするのではないかという心配が出てくる。
 では、どうしたらいいのか。どうすればいいのか。ということでわたしが考え出したのが意見箱である。わたしは教会の総会でこんなことを皆の前で発言した。「自分の意見を牧師や役員に言えないような人のために意見箱を設置してほしい」と。わたしの考えでは足の不自由な人のためにスロープやエレベーターを設置するのと同じように、心の不自由な人(自分の気持ちを直接相手に伝えられないような人)のためにも彼らが意見を伝える方法を確保しておくべきではないか、ということなのだ。総会ではこのたとえは持ち出さなかったけれど、それでも小さき者に合わせることが必要ではないかとわたしは皆に訴えたのだ。
 この意見を発言した後、予想外の出来事が起こる。それは何人かは分からないけれどもわたしの熱弁が終わった時に拍手をしてくれた人がかなりいたのだ。拍手。おそらく「いいことを言ってくれた。ありがとう」ということなのだろう。しかし、その発言の後、反対意見が二人出た。要約すると「牧師や役員に言えばいい。そういったものは必要ない」といった意見だった。
 意見というものは多種多様。十人いれば十人十色のごとく十個の意見が出るのが当たり前。健全な場では批判的な意見も出る。しかし、何だかそのわたしへの反対意見がまるで「牧師や役員に直接意見を言えない人は切り捨てても構わない」と言っているかのように聞こえてきてわたしは心底残念だった。もちろん、意見箱なるものが設置するのにものすごく費用とか多大な労力がかかるということであれば、そういった理由から反対することはありだろう。しかし、意見箱はほとんど費用もかからない。強いて言うならば、その意見を読んでそれをまとめる手間暇がかかるくらいだ。だから、何も皆の献金額を20%上げるようにとか、そんな無理難題をふっかけているわけではない。ただ、小さき者(自分の意見を誰かに直接言えないような人)の意見も汲み取ってほしい。意見を言える方法を確保しておいてほしい。ただそれだけなのだ。
 この意見箱という発案。これが役員会で話し合われることがその総会で決まり、この案が実現されるかどうかというのが今の段階だ。だから、もしかしたら実現されるかもしれないし、されないかもしれない。でも、わたしは自画自賛するわけではないけれど、いい提案をしたのではないかと思っている。教会というのは本来声なき声、声にならないような小さくて弱い声を拾っていかなければならないのだ。直接牧師や役員に自分の意見が言える人は言えばいい。でも、言えない人だっていると思うのだ。また、言えるけれども、本当は言いたいのだけれど今後の教会生活を円滑にしていくために沈黙せざるを得ない人だっている(かどが立ったり、波風が立ったり、関係がぎくしゃくするのを恐れるがために)。
 意見箱というものをどう運営していくのか。問題は山積している。けれども、これをやることにわたしはメリットがあるだろうと思っている。だからこそ総会で発案したのだ。際どいのかもしれない。あえて厄介なことに首を突っ込むことになるのかもしれない。それは十分承知のこと。でも、教会を変えていく、良くしていくのって何か問題は出てくるだろうけれど、そればっかり気にしていたら何もできないのだ。結局、何もやらずじまいでまた振り出しに戻るだけなのだ。でも、みんなで考えに考えて試験的にやってみるなどして、またやらないことにするというのは十分ありだと思うし、それは悪いことではないと思う。ただ、やる前に戻っただけなのだから何も失ってはいない。むしろ、教会にとって新しい試みができたのだから、挑戦できたのだからそれは素晴らしいことではないだろうか。
 小さき者を切り捨てない。言うのは簡単だけれど実行するのは本当に難しい。イエスさまは何て言うかな? 「意見箱、ぜひともやりなさい」って言ってくれるかな? 弱い人、虐げられている人に寄り添ったイエスさまならきっと賛同してくれる。そして、決して自分の意見が言えない人のことをどうでもいいとか、無視していいとか言わないはずだ。イエスさまの精神。それに従っていくのなら意見箱はそこからは外れていないと思う。イエスさま、意見箱っていい考えだと思いますよね?

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