いろいろエッセイキリスト教エッセイ
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 昨日、教会で聖書研究会があり、その後、少し立ち話となって言われたことが何だか意外で自分でも驚いている。
「星君(その方はわたしのことをさん付けではなくて君付けで呼ぶ)、変わったよね。表情が優しくなったよね」とその方はわたしに言うのだ。で、それを聞いていた奥様も「そうだよね。変わった、変わった」とうなずく。
 自分のことというのは案外分からないもので自分が変わっている、変わってきているということに気が付いていなかったのだ。でも、彼らが二人揃って「変わったね」と言うものだからあながち気のせいではないのだろう。わたしの表情というか目つきは穏やかになってきていて、優しくなってきているらしいのだ。
 そう言えば最近、イライラしなくなったな。絶不調になってベッドに逃げ込むこともなくなったな、とそう言えばと思い当たる。その何気ない「そう言えば」というのがやはり調子が良くなってきたことなのだろう。
 その話を家に帰ってきてから母にすると教会の夫妻の「表情が優しくなって変わった」という観察に「そうだね」と母までもがうなずくのだ。そんなに変わったんですかい? 何にも自覚してないけどね。三人がわたしのことを「変わった」と言う。これはどうやら確定事項のようだ。お世辞でも何でもなく本当のことのようなのだ。
 そもそもわたしには心をざわつかせることがない。至極、わたしの周りは平和そのもので穏やかな空気が流れている。もしかしなくても、わたしが変わったことによって周りの環境までも変わってきたのだろうか。自分がいい人、優しい人になってきたことによって、優しくて素敵な人を呼び寄せるようになってきたのだろうか。そんな少々、スピリチュアルなことはわたしには分からないけれど、それでもそういったことは十分ありそうだ。何というか、わたしの人間関係、交友関係は決して広いものではないものの、その狭い関係の一人ひとりがとてもわたしを大切にして愛おしんでくれているのだ。
 昔のわたしは本当に嫌な奴だった。特に高校、大学時代は思い出したくないくらい荒廃していて、心が荒れていた。何も努力をしないくせに俺は特別なんだというエリート意識を持っていて、そのつまらないプライドで多くの人たちを平気で見下していた。自分は優れていて、大衆は自分のことを何にも分かっていないし、その分からないこと自体が馬鹿なんだよ。そんな風に考えていた。
 今のわたしは、と言うとそんな頃とは全然違う。嫌な奴の面影は残しているものの、変わりつつあるようで、基本イライラすることがないし、心が潤っていてある程度は満たされている。自分はもしかしたら普通程度よりは少しばかり頭がいいかもしれないけれど、だからと言って自分が特別な存在だと誇示していいとは思わない。本当に優れている人というのは人間的にも魅力ある心が穏やかで温かい人であって、何も自分の能力を偉そうに他人に見せびらかす人ではない。そして、別にみんながわたしを頭がいい人だとか有能で賢い人だと認めてくれなくてもいい。認めてもらえれば認めてもらえたで嬉しいし、そのことに感謝はするけれど、基本、自分が楽しく幸せに毎日を生活できていればいい。孤高の天才になりたいとは思わないし、それは幸福とは言えないのではないかと考える。仮に自分が優れていて突出していたとしても、別の尺度から判断すればわたしの方が劣っていることになる(勉強はできても、料理が上手いかどうかという基準になれば落第点であるように)。だから、自分ができないことや分からないことについては謙虚でいる必要があるし、自分がオールラウンドに何でもできるわけではないことを自覚している。
 以前のわたしを蝕んでいたもの。それは競争意識と劣等感だったように思う。たしかに平和な人は人と比べないし、他者に勝とうとかそんなせせこましいことは考えない。それよりもいかに自分の能力を磨いていって、それを他者のために用いるか。そういった方向へと行くように思えてならないのだ。昔のわたしは自分の能力を誇示したかった。偉そうに自分のほうが優れているんだぞとみんなに見せびらかしたかった。そして認めてもらいたかった。まぁ、かなり青かったわけだ。でも、そこからいろいろな経験を重ねていったことによって、そうして見せびらかすことに、それをしたところでどのような意味があるのだろうかとはたと我に返ったのだ。「すごい」の大合唱を浴びたところでそれにどのような意味があるかと考えるなら、とたんに何だか虚しくなってこないだろうか。そのような方向性を完全に放棄することはまだ今のわたしにはできていないけれど、それでもその名誉とか賞賛などを冷静に眺めることができるようになってきている(と言いながらも実際それを浴びたら病みつきになるだろうけどね)。
 大きな気付きとしては名誉や賞賛がわたしを幸せにしてくれるのではなくて、名誉や賞賛を素直な心で喜べて「あぁ、幸せだな」と思えるかどうかだということ。最後はその自分が体験していること、感じていること、そして今の現状に満足することができるか。拍手喝采することができるか。我が心あるところに幸せがある、のだ。
 わたしは変わってきたらしい。そして、これからまたどのように変わっていくのだろう。もう昔の方向へは戻りたくないな。光のあるところへ、光のある明るい方向へと向かっていけたらいいな。
 もちろん、24時間365日、毎秒、毎瞬間、すべて幸せです、なんていうのは無理だろう。でも、その生きている時間が幸せな時間で埋められていったらいいなって思う。
 いや、生きているんじゃない。生かされているんだ。神様によって、神様のみ手によってわたしは生かされている。いやはや、それが一番重要でしたね。
 闇ではなくて光の中を歩みたい。光が、わたしの人生に光が射してきた。このまま、この方向で。

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