主の平安?

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 最近のわたしは以前よりもヨガに時間を割くようになった。毎日2時間くらいはやっているだろうか。そのせいか、とても心が落ち着いてきた。平安というか、平和というか。もちろん、悟ったとかそんなことを言えるわけではなくて、ただ落ち着いてきて静けさを感じることができるようになってきたというくらいなのだけれど。
 今日は日曜日で教会へ行ってきたのだけれど、少々苛立つことがあったんだ。何かわたしがダメ出しされているみたいな、そんな状況があって以前のわたしだったらぶち切れていたことだろう。怒号を飛ばしてつかみかかるまではしなくとも、プンプン怒っていたに違いない。でも、今日は朝40分くらいヨガをやっていたせいか、そうした衝突は避けることができた。
 ダメ出し。簡単に言うと相手への批判的な言葉というのは上から目線なわけだ。相手のダメなところを指摘するわけだから、少なくとも批判している当の自分自身はそのレベルは軽くクリアーしていなければならない。自分ができていないのに相手を批判するのだとしたらそれは辻褄がもちろん合わないのだし、真っ当な批判だとは言えない。そのダメ出しというのが信仰のあり方についての批判だったりするのだからなおさらタチが悪い。信仰というのは本来自由なものだ。もちろん、キリスト教を信じていると言いながら悪魔崇拝をしていたり、イエスさま以外の存在を崇めているようではダメだというのはもっともで、それだったらまだ分かる。でも、そうではなくて本当にささいな信仰のあり方についての批判。たしかにその人はわたしなどよりも信仰心があつくて熱心でそう言いたくなってしまうのかもしれない。けれど、わたしにも曲がりなりに信仰というものがある。十人十色との言葉の通り、10人いれば10通りの、100人いれば100通りの信仰の形がある。どれが優れていてどれがダメだとか言えないし、言ってはいけないと思う。それに、それを言うこと自体がハラスメントなのだ。
 と、おっと、カリカリしてしまいました。批判されると反論して反撃したくなる。でも、わたしはそこで踏みとどまった。踏みとどまれたのは「まぁ、この人だったら仕方ないかもな」と同じ土俵に立たずに相手を変えようとしなかったからだ。その状況になった時、わたしは自分の呼吸に意識を向けた。そして、吸って、吐いてを意識的にやるようにした。そうしたら鎮まってきた。
 というか、せっかく朝ヨガをやって心を整えて教会へ出掛けたのにそこでかき回されるって変な話じゃないですか。教会って本来、憩いと安らぎのある祈りの家のはずなんだけれど。というか、そういうネガティブな感情はおうちで払い落としてから来てくださいね、って言いたくなってしまう。
 本当に徳の高い人ってどんな態度を取るのだろうかと考えると、言うべきことは言うけれど、それとてさらりと嫌みなく言ってあとは自分自身離れたところからその渦中を眺めているって感じなんだろうなって思う。自分は決してそれに巻き込まれないで、それに影響されない。影響されたらもちろん平安ではなくなってしまうからで、この人はどんないかなる状況においても気持ちをかき乱されることはないのだ。そんな人だったら誰かから批判されたとしても「そういう意見もありますからね」などと柔和な微笑みを浮かべていることだろう。怒るとか、不安になるとか、そういう選択肢はその人にはなくて、平安一択。わたしもそんな人になれたらいいなぁって思う。まだまだ修行中でそこまでは到達できていないけれど。
 ヨガを含む東洋思想というものは相手や周りの環境を変えようとはしないんだ。それよりも自分自身の心のあり方、ならびに持ち方を重視して、それさえ整えたりコントロールできれば問題は解決すると教える。意外に思われるかもしれないけれど、心理療法の認知療法はこの行き方を採っている。誰もわたしを不幸にすることはできない。いかなる物事やいかなる人であってもわたしを苦しめたり不幸にすることはできない。そうヨガも認知療法も考える。ってあまりにも外的なものが強烈すぎる場合にはそれは無理じゃないかと言いたくもなるけれど、一般的な物事であれば大抵これでうまくいくようにわたしには思える。この考え方、自分を変えて問題に対処するというやり方はキリスト教的な文化とは明らかに異なっている。西洋の思想はまわりを変えようとする。自分を変えるのではなくて、自分以外のものを変えようとするんだ。東洋思想の何がいいかと言えば、往々にして人や環境は変えられないことが多い。それに自分以外のものを変えようとすることには多大なエネルギーが必要。それよりは自分の感じ方、受け止め方を変えた方が手っ取り早いとも言える。自分を環境だったりまわりの人に適応させて調和させる。
 ヨガは悪く言うなら鈍感になるトレーニングだとも言える。ピリピリ、カリカリした神経過敏な状態から「ゆっくり吸って~、吐いて~」とゆったりまったり呼吸しながら体を動かして落ち着きを取り戻させることによって、多少の問題は気にならなくなってくる。気にしまくっていた状態から、あまり物事を気にしない大雑把な、良く言えば大らかさのある状態へと人を変えていく。警報機が鳴り続けているような警戒態勢からよほどのことがない限り鳴らないように、感知する、反応するレベルを下げていく。まぁ、鈍くしていくということだ。
 わたしはと言えば、この多少鈍くなっている(語弊あり?)状態の方が毎日を心地良く過ごせる。警報機が鳴りまくっている厳戒態勢では心が休まらない。いろいろ問題はあることはあって、山積みということは山積みなんだけれど、「まぁ、とりあえずこれでいっか」くらいの方が生きていく上では楽だ。
 ある人がTwitterでこんなことをつぶやいているのを見かけた。「みんないろいろ信仰の悩みとか、生活の悩みとかあるだろうけれど、食べることができて、歩くことができて、排泄することができて、眠れる。それだけでいいんじゃないですか? それができるだけで儲けもんであって、まずはそれで良しとした方がいいんじゃないですか?」というようなことを言っていたのだった。その方はヨガの先生でおそらくヨガがその方をそのような大らかな心持ちにさせているのだろうと思う。もしも、その人が厳戒態勢のような心理状態で警報機が鳴り続けているような人だったら、きっとこんなことは言えなかっただろう。ヨガには人を少しばかりのことでは動揺しない大らかさをその人に与える力がある。
 今の時代、SNS全盛で人からの反応に一喜一憂してその言葉だったり情報だったりにキリキリ、カリカリしてやきもきしている人が多い中、ヨガをやっている人というのは逆に魅力的ではないかとさえわたしには思えるのだ。ヨガをやっている人は物事の受け取り方がおだやかで、心が落ち着いていて安定していて、本当に必要なことにだけ力を入れて取り組む。緩急の付け方もうまい人が多い。って自分がそうだって言いたいのではなくて、わたしが通っているヨガ教室のおばちゃんたちだったり、ヨガの先生を見ていて感じたり思うことなんだ。それとヨガの有名な先生が書いた本なんかを読んでいてもそれを感じる。わたしも少しずつだけれど、そういう風に変わってこれたかなって思ったりもする(ってドヤ顔で言っているわけではありませんよ)。
 シンプルに、ごくごくシンプルに。必要なことをしっかりと見定めて、無駄な労力を使わないでこれと思った大切なことに集中する。緩急をしっかりとつける。自分がしっかりとあって、人の意見や判断に安易に左右されないし、流されない。どっしりとしている。肉体的にも精神的にも無駄なものがそぎ落とされたような状態。それがヨガ的な人間。神経も研ぎ澄まされていて、でも神経過敏だったりするわけではなくて落ち着いていて穏やか。
 そんな風になりたくてわたしは毎日ヨガをやっている。近付いてきたのかな? って別に自慢したいわけではなくて、ただわたしがそうなりたいだけの話。キリキリ、カリカリに、不安に、怒りに、ネガティブな感情。そうしたものからもうそろそろ卒業したい。そして、安らかな心地で生きていきたい。平安と共にありたい。
 これから何をやり、何をやらないか。そして、やるとしたらどの程度やるのか。それは実際やりながら、つまり歩いたり走ったりしながら考えていけたらと思う。やりながら、実際に試しながらいい案配を試行錯誤していく。で、いいんじゃないかなぁ。その方が最初からこうやろうって決めて型を作ってしまうよりは実状に合ったやり方ができるし、臨機応変に変えていけるから無理がない。
 言うまでもなく、他人を批判することでは平安は得られない。批判された人が心穏やかでいられないのはもちろんのこととして、その批判した人だって平静な面持ちではいられない(と言いながらわたしはこうして批判しているので矛盾しているけれど)。そうではなくて、大らかな心で人と、物事と、そして世界と、ゆくゆくはこの宇宙と調和していくんだ。だからこそ、キリキリ、カリカリしていては調和という状態からは遠いのだし、平安というのは森羅万象と調和して一体になった状態なのだと思う。って全然キリスト教的じゃないですね、とお叱りを受けそうだけれど、今のわたしにはこの思想の方がしっくり来るのだ。
 わたしも人を批判したくなることがよくある。でも、そんな時は呼吸を整えてその意味するところを味わうだけの精神的、肉体的な余裕を持ちたいものだと思う。そうすると、その自分がしようとしている批判がどんなにちっぽけでささいなことでつまらないことかっていうことが見えてきて、目が見開かされてくる。わたしはそんな風にキリキリ、カリカリしたくない。誰かを攻撃したいとは思えない。優位に立ちたいとも思えない(と言いつつこの文章では相手を批判しているのでこれも未熟な態度でわたしは自己矛盾している)。そうではなくて、自分を池とか湖だとしたら石が次々にそこへ投げつけられて、水面が荒れて波紋が次々に立ったとしても、その様子をじっとただ見ているのだ。そして、その波紋が消えてまた穏やかさ、静寂さが取り戻されるのをただ静かに待つ。どんなに水面が波立ってもいつかはまた静かになる。そうして静かになるのをただ待っている。そうすると、いつかはまた元の静けさへと戻る。
 わたしは見ている。ただ眺めている。穏やかに、静けさと共に。そんな境地になれたらと思いながら、今日も地味に、けれど着実にヨガをやっている。それが主の平安なのかな?(ってやっとキリスト教につながった!!)

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