いつも喜んでいなさい

キリスト教エッセイ
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 分かっている。分かっているんだけど、なかなかできない。それが、いつも喜んでいることだ。いつも喜んでいるだなんて脳天気人間じゃあるまいし、と思われた方もいることだろう。しかし、この言葉は聖書の言葉なのだ。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(1テサ5:16-18)

 この御言葉は、以前わたしの教会で「あなたの好きな聖書の言葉を教えてください」というアンケート企画があって、たしか3人か4人くらいの人が好きな御言葉として挙げていたんだ。それくらい人気があるというか、親しまれている聖書の箇所なのである。
 この御言葉、たしかにキリスト教の神髄なのかもしれないなって思う。いつも喜んでいることは難しいことだけれど、それを目標に掲げて生きる姿勢はとても素晴らしいものだし、尊いことだとわたしも思うのだ。
 はっきり言って、わたしが喜んでいることって少ないような気がする。わたしが喜ぶ時って何か特別な時なんだよな。いつも喜んでいるどころか、なかなか毎日の生活の中で喜べない。もちろん、朝散歩をしているときに、すごい幸福感を覚えて喜んでいる時もあるけれど、それだって毎日ではない。朝散歩しながらも、心が踊らない中立的な日の方が断然多かったりするのだ。
 でも、だからこそ、いつも喜んでいなさいなんだろうな、って思う。いつも喜べないからこそ、喜んでいなさい。それこそが、イエスさまが望んでおられることだってね。
 この御言葉がキリスト教の神髄だとしたら、やっぱり神様はわたしたちに喜んでいてほしいんだと思う。そして、幸せになってほしいと願われているんじゃないかな。
 キリスト教と一口に言っても、いろいろあるから一概には言えないけれど、何か不幸にとどまり続けて、それが立派な信仰だ、みたいな我慢大会をしたがる人たちもいるけれど、わたしはそうは思わない。不幸の品評会のような、そんなことはしなくていい。不幸の競い合いはしなくていい。おそらくわたしはかなりキリスト教でもリベラルな方なのかもしれないなって思う。そんなわけだから、わたしはこの世の不幸を自分で背負い込むことについては否定的だ。こう言うと、現実を直視しない楽観論者、お気楽者って叩かれるかもしれないけれど、現実というのは100%不幸ではないのだ。どんな人の人生においても、楽しいこと、幸せなことはあるんだ。それをすべて見ないようにして、何でこんなに世界は不幸なんだろうねぇ、とか不吉な場所なんだろうねぇ、理不尽なんだろうねぇ、とひたすら嘆き続けるのは正しい世界の見方ではないと思うな。もしも正しい世界の見方があるのだとしたら、暗い面だけじゃなくて明るい面も公平に見なければならないんじゃないの?
 世界にはいまだに問題は山積していて、不幸な人はたくさんいる。彼らのことを思うと、わたしは自分が幸福になっていていいのか、と中島義道の『不幸論』のあの一節を思い出してしまう。不幸な人がいるのに幸せを満喫していていいのか。なかなかシビアな問いである。だからこそ、先進国の豊かな国の人々は貧しい人を視野の中に入れないようにして、つまりは見ないようにして自分の正当性を保とうとするのだ。
 以前、と言ってももう3年くらい前になるだろうか。こんなことを考えたことがある。わたしが毎日生きるために使っているお金はわたしなどのために使うのではなくて、貧しくて今にも死にそうな人たちのために使った方がいいんじゃないか、って。わたしは自分なりに真剣に考えた。わたしが自殺して、残されたなけなしのお金を全額寄付などに回せば、それが一番いいんじゃないかって考えたんだ。わたしなんかよりも、もっと真剣に生きたいと願っている人が生きた方がいいんじゃないか。これは極端な考え方だと今となっては思うけれど、それでも一理通ってはいる。が、この考えは歪んでいた。だって、自分のために自殺してもらっても何にも嬉しくないじゃん。むしろ、申し訳なく思って困惑するよ。だから、そもそも目指すべき方向性が間違っていたのだ。わたしも幸せ、あなたも幸せのWin-Winを目指すべきだったのだ。わたしは勘違いしていて、自分をイエス・キリストであるとは思っていなかったものの、つまりはそういうことをやろうとしていた。自分が犠牲になることによって、多くの人たちを救おうとしていたのだ。しかし、考えてみれば、わたしの残した財産なんて世界の貧困を救うには明らかに足りないし、そこでわたしが死んだところでいわゆる無駄死になんだろうな、って一歩下がって考えてみたら思えてきたんだ。犠牲者を出さずに、みんなで幸せになるにはどうしたらいいのか、その方法を考えていった方がいい。
 話を戻すと、世界は暗くもあるけれど、明るくもある。不幸もあるけれど、もちろん幸福もある。だから、公平にそれらを見ていった方がいいとさきに書いた。と書きつつも、公平ではなくて、むしろ幸福な出来事や物事をひいき目で見てもいいんじゃないか、という気がしてきた。わたしが観察する限りでは、幸せそうな人と不幸せそうな人の二種類の人種がいると思う。もちろん、経済的なことだったり、人間関係が豊かだったり、そうでなかったりと置かれた環境は違うので一括りにはできないのだけれど、同じ状況に置かれた時に幸せを発見することが上手いか下手なのか、それにかかっているんじゃないかな。幸せ探しの名人はどんなことでも幸せに変換してしまう。まさに幸せ変換器だ。反対に不幸探しの名人はどんなことにおいてもネガティブなことを発見して、何でもかんでも不幸にしてしまう。わたしだったら、幸せ探しの名人になりたいな。名人が無理なら初段くらいにはなりたいなと思う。炭酸水をコンビニで買ったとして、それを「おいしいなぁ」と飲むか、それとも「こんな安いものうまくないに決まっている」とつまらなそうに飲むか。もうこれだけで、たったこれだけのことで雲泥の差ができてしまっている。
 いつも喜んでいなさい、だな。わたしは喜んでいたいな。不平不満や文句を言うことも時には必要だけれど、あえてそんなことは言わずに喜んでいられたらいいなって思う。そして、喜んでいれば、類は友を呼ぶの言葉の通り、いつも喜んでいるような人たちが寄ってくるよ。それでみんなで喜び合う。まさに好循環だね。喜んでいるか、どうか。たったこれだけのことで、人生は劇的に変わっていくんじゃないか。まだわたしは喜ぶことをはじめようか、といういわば卵の状態だけれど、喜ぶといういい空気は連鎖していくように思えてならないな。そして、御言葉にもあるように、祈って感謝することも忘れないようにしたいな。
 あの人、脳天気だねと批判されようが、お気楽なもんだ、と呆れられようが、わたしは喜んでいたい。そして、この喜びは連鎖していき、世界は少しずつ平和になっていく。わたしのもたらす影響は微々たるものでしかないけれど、それでも確実に世界を変えていける。わたしはそう信じたいな。喜ぶ人に幸あれ、だな。

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