ガツガツと知識を貪欲に求める。知的に向上しようと一生懸命学ぶ。そういった営みは素晴らしいことだと思うし、わたし自身も否定はしない。けれども、この記事では、見落とされている側面、というか、そういった面に少しばかり光を当てることができたら、と思うのだ。
以外とみんなが着目しないこと。それは何を知らないのか、ということである。わたしたちは知っていることだけからできているように思いがちだけれど、そんなことはなくて、知らないことからもできているのだ。何だ、そんな当たり前のこと言わないでよ、とあなたは少しばかり白けているかもしれない。
でも、知らないということ。それは大切なことだと思うのだ。たしか、わたしが以前、認知心理学のテキストを読んでいたら、たしかこんなことが書いてあった。「知ったら知る前の状態には戻れない」。これも至極当たり前のことで、何ら驚くべき新しい内容はないように思われる。でも、何かこの言葉に凄まじい真理があることをわたしは感じてしまうのである。
たとえば、ある時わたしが経済学について知りたいと思って勉強したとしよう。そうすると知識は増すのだけれど、経済学を勉強する前の状態に戻ることは出来ないのだ。戻る方法が唯一あるとしたら、記憶操作でもして経済学を学ぶ前の脳味噌の状態に戻すことくらいだと思う。でも、そんなことは現実においては不可能だから、何かを学んだらやはり学ぶ前には戻れないのだ。
だから、何でもかんでも手当たり次第に学ぶのはいいことではない。本当に自分にとって必要なもの、どうしても学びたいもの。そういったものに絞って学んでいくことが必要ではないかとわたしは思うのである。とは言えども、わたしにはそんなことを偉そうに言えるだけの知識はないのだが、それでも今まで、そうだな。20年くら読書したり、独学してきたかな。だから、昨日、今日の実感ではなくて、しみじみとこのことを思うのだ。
また知ることによって、ピュアさが失われてしまうということも大いにありえる。宮沢賢治は女性を知らない、つまりは童貞だったんじゃないかっていう説があるんだけど、わたしは彼はやはり童貞だったんじゃないかって思うんだ。もちろん、それがいいとか悪いとかそういう議論をしたいのではなくて、あの彼の透き通った無垢な文章は女性を知ってしまっていたらおそらく書けなかっただろうということだ。知らないこと。それが時として純粋さとして表れるのだ。
けれども、大人になるということは多くの体験をしていき、知識についても増していくことだと言われるかもしれない。それももっともなんだけど、わたしはどういった体験をしてこなくて、どういう知識を持っていないのか。それも得ているものと同じくらい重要ではないかと言いたいのだ。人間は冒頭にも書いた通り、知っていることと知らないことからできているのだから、知らないことについても自覚的になった方がいいと思うのだ。
世間を見渡せば、知の巨人、知の怪物、知の妖怪などと膨大な本を読み、大量の知識を得て、それを自らの思索へとつなげていったようないわゆる知識人がちやほやされている。わたしもそういった人は素晴らしいとは思う。博学であること。知識が豊富にあること。深い文章が書けること。それは素晴らしい価値あることだ。でも、とわたしはふと立ち止まって考える。自分なりにやっていけばいいんじゃないの、という声が自分の中から聞こえてくる。何もみんながみんな賢くならなくていい。大切なのは、いかに自分なりにやっていくかってことだと思うんだ。そういう意味で読書猿『独学大全』はすごくない平凡なわたしたちへの熱烈なエールだった。勉強をやろうとしても続かない。やる気がすぐなくなる。そんなわたしたちを応援してくれているような本だった。売れた理由、分かるなぁ。
話が少し脱線したけれど、つまり、知っていることが尊いように、知らないことも同じくらい尊いのである。だから、相手が何かを知らなかった時に「こんなことも知らないのか」と言うのは良くないと思うし、知らないということも価値があることなのだから、その欠けている部分をも愛おしめたらと思うのだ(もちろん専門家として必須の基本的なことを知らないとしたら咎められてもまぁ仕方がないけれど)。
別の言い方をすれば、人間は完全ではないから味があるんだろうなぁとも思う。もしもすべての人間が全知だとしたら、もう会話する必要もないよね。また、完璧な人というのはどこか近寄りがたくて、愛嬌がない。ドジでおっちょこちょいで抜けている人の方が案外愛されることが多かったりするから面白いものだよね。たとえば、数学が絶望的なほど苦手でまさに数字アレルギーだったとしても、そこがその人のえくぼみたいなもので、完璧に数学ができる人にはない持ち味であり魅力にもなりうるんだ。
だから、何を知らないかということもその人を形作っていて大切な要素なんだ。わたしも知らないことは山のようにあるけれど、それらを悲観して否定的にとらえるのではなくて、それが今のわたしのわたしらしさなんだなと肯定的に受け止められたらいいな、と思う。でも、まだまだ知りたいことはたくさんあるから学んでいきたい。そして、わたしは少しずつ変化していって、アップデートされていって、今のわたしとはまた少し違ったわたしへとなっていくんだろうな。
人は知っていることと知らないことによってできている。その割合や濃淡がその人らしさ。わたしにしか出せない色を出していきたい(ってもう出しているけどね)。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。