先輩クリスチャンと電話で話してから考えたこと

キリスト教エッセイ
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 昨日、教会員のSさんと電話でお話をした。その日の寝る前に書き綴ったメモをここに載せたいと思う。

 Sさんと電話で1時間ほど話をした。
 神様、イエスさまがどんな時もいつも共にいてくださっている。とてもシンプルな信仰。でもその話している内容が神々しかった。聖なるオーラを感じさえした。信仰とは何なのかという生き様を教えてもらったような気がした。信仰生活50年はやはり並大抵のものではないと思った。彼女の中にはキリスト教がしみ込んでいて血肉化して一体となっている。そんな風に思えた。
 彼女はキリスト教神学についてはほとんど何も知らない。けれど、もうあれだけ深い信仰があるのであれば、もはやそれは何の問題にもなっていない。信仰の基本動作をひたすら続けてきたことによる凄み、深みを感じた。神学を知っていれば、聖書の原典の言葉ができればすごいのかもしれない。でもそんなことはどうでもよくなってしまうような圧倒されるものを感じた。迷いがなく、疑うこともなく、まっすぐに愚直なまでにイエスさまと神様が自分と共にいてくださっていると信じている。大きな怪我をしても彼女は「何で怪我をしないようにしてくれなかったんだ」と文句を言うどころか反対に「この程度の命にかかわらない怪我で済ませてくださって本当に感謝している。わたしをイエスさまは守ってくださった」と言う。もうこれは既に神義論だ何だというようなレベルを信仰によって突き抜けている。どんなネガティブな出来事も彼女はイエスさま、神様からの恵み、感謝へと昇華させてしまうのだ。となればもう恐いものはない。どんなネガティブなこともキリスト教的な解釈で反転させてしまうのだから。わたしにはそこまで素直に信じ切れない。どうしても感謝よりも不満が出てきてしまう。
 もう彼女の信仰は円熟期に入っているのだろう。そして経験の浅い他の信徒を励まし力づけるようなポジションにいる。
 セミのようにコロリと潔く死ぬ、という話をしたらその「潔く」という言葉に彼女はとても感銘を受けたらしかった。いい話が聞けたらと喜んでさえいた。
 また、わたしが朝散歩をしていることをとても喜んでくれた。わたし(注:星のこと)に神様の力が働いて守られているのだ、と言って。わたしに聖なる力が働いていて朝散歩をするに至っているのかそれは分からない。しかし、彼女は神様がわたし(注:星のこと)のことを守っていてくださっているのだと言う。神の力で朝散歩なのだろうか。
「また電話します」と彼女はわたしに言う。わたしは教会に何も行っていないのに。
 教会を離れて彼女の聖なるオーラを感じたそんな電話だった。

 Sさんとお話させていただいて思ったこと。それは彼女の生き方が頭のてっぺんから足のつま先まで徹頭徹尾キリスト教的であるということだ。毎週礼拝に出席し、聖書を読み、祈る。それを50年続けた彼女。もうすべてがことごとくキリスト教なのだ。でも、すべてが信仰の話というわけではなくて、毎日の生活があるわけだから家庭菜園の話もしてくれたし、常識的な思考ももちろん持ち合わせている。けれど、一番その人を形作っている根っこ、いわば核の部分がしっかりとキリスト教によって染まっている。そして、そんな彼女が発する言葉の一つひとつに無理矢理あてはめようとしている感じではなくて、自然とイエスさまや神様というワードが出てくる。さらには、その毎日の生活。その生活において本当に実感として神様とイエスさまを感じている。共にいてくださっているのだとまるでそれを当たり前にある空気のように呼吸している。
 信仰は比べるものではないけれど、わたしはと言えばイエスさまと神様はどこかへ行ってしまっている。理屈としては共にいてくださっているとは思っているし、信じてはいる。けれど、本当に感覚的に、まるで空気のように感じるところまでは行っていない。いわば理屈で想像したり、こうだと思っているにすぎない。だから、キリスト教というものがわたしの中にはしみ込むところまで行っていない。仕方がないと言えば仕方がない。まだまだ信じるようになってから時間が経っていないのだから。
 また彼女の信仰はシンプルで余計なものが一切ない。ただ、イエスさま、神様はいつも共にいてくださっている。そして、それを信じている。彼女の信仰箇条を要約すれば、この一言だけで終わってしまう。でも、複雑なことを理解していれば本当に心の底から信じることができるかどうかと言えば、そうとは限らないように思う。聖書に精通しどこに何が書いてあるかそらんじて言える。聖書の原典の言葉だって流暢に話せるし、原典をスラスラ読むことだってできる。難しい神学もしっかりと理解できている。しかし、なぜかは分からないけれど信じることができない。そんな人いるんじゃないかと思う。難しいことをいろいろ知っていて、キリスト教に関する知識だったら牧師や神父顔負けなほどなのに、一番肝心なこと。つまり信じることができない。信仰は神様が与えてくださるもの。そうわたしが通っていた教会では教えられていた。だから、知識ではない。聖書語学でもない。そして、もちろん神学に精通しているかどうかでもない。ただ神様が与えてくれる賜物。それが信仰なのだ。
 ということはわたしが教会生活から離脱したのは神様の御心なのか、という難しい問題が出てくるわけだけれど、そうした問題を考えていても答えが出ないことは分かっている。神学的な議論というのは聖書を土台にしてああでもない、こうでもないと言い合っているにすぎないから決着は着かない。わたしはそうした議論に自分の時間を費やしたいとは思えないし、その一見神様とは反対の方向を向いているような現状でさえも神様の摂理が働いているから今のようになっているのだと考えるなら、ただただなるように任せていくしかないのだろうなと思うのだ。キリスト教は他力の宗教だから、自分で信仰のあるなしをコントロールできるという発想はなじまない。できることはわたしに信仰を与えてくださいと求めることくらいだろうか。しかり、その信仰を与えてほしいと求めることさえも神様が与えなければできないとしたら、人間は完全に無力な、そして非力な存在だということになる。だから、そういう意味で今のわたしは他力のあり方のキリスト教としっくりうまくいっていないのだと思う。むしろ仏教やヨガなどの方が今のわたしの感覚には近くて合っているようにさえ思えてしまうのだ。
 わたしは一瞬だけれど一心に愚直なまでに信じることができている彼女がうらやましくなった。彼女の放つ聖なる空気に圧倒されて一瞬ではあったものの自分もこんな風になれたらなと思った。が、また次の瞬間にはこうなるためには50年も教会生活を送らなければならないのかとコストパフォーマンスの計算をし始めて、何だかそれも難儀なことだなと現実に戻らされたのだった。何かを続ける。それも長期間ひたすらそれを続けることは、その続けた人をそのものと同化させて一体にする。それは言うまでもなく当たり前のことであって特化した人間となるのだ。
 こんないわば教会生活から脱落したわたしに愛想を尽かさず彼女は電話をかけてきてくれる。それがすごく心にしみるというか、その教会というメンバーでなくなっても、それでもわたしを慕って大切に思ってくれるというその優しさは優しいの一言では表現できないほどの深みを持っている。彼女は基本的に自分が嫌だと思うことはしない人だから電話も数ヶ月に一度という感じなのだけれど、かえってそれが義務感からではないということが分かるだけこちらも気を遣わずに済むのはありがたい(もしかしたらこれはわたしの憶測にすぎないのかもしれないけれど)。
 共におられる神。まさにインマヌエルの神。そのことでおそらく始まり、そしてそのことで終わっていくであろう彼女の信仰の旅路だと思うのだけれど、彼女の世界観は世界中すべての人たちを包み込んでいて、そして神様とイエスさまが今日も愛でわたしたちを覆ってくださっている。彼女はそんな風に考えていることだろう。
 わたしがヘブライ語をクリスチャンの嗜みとして学ぼうとしていたのがとても恥ずかしく思えてきてならなかった。神様とイエスさまが共にいてくださっているのだという最も基本的な確信が得られていないのに、見栄のようなもののために聖書を原典で読めるようになって人よりも優位に立とうとするこの浅ましさ。そういうことのために学ぶものではなくて、信仰をより深めていくための手段の一つとして聖書語学、わたしの場合はヘブライ語があるのではないか。つまり、イエスさまにより近付いていこうとするためにヘブライ語をやるべきなんだ。そうでなかったらただ自分の虚栄心を満たすためだけに学んだことになってしまう。
 わたしは神様に守られているのだろうか? 守られているがゆえに今、朝散歩をやるに至っているのだろうか? どうも確信が持てない。インド哲学もいいけれど、また聖書も読んでみようと思う。違うものにふれたことによって、より理解できるようになっているかもしれないと少しばかり期待したりもする。
 これからわたしがまた教会へ行くようになるのかどうか。それは未定だ。わたしには分からない。もしかしたらそれをご存知なのは神様だけなのかもしれないと中途半端な立ち位置のわたしは考える。これから異教のもとへとどんどん進んでいくのか? なるようになるさ。もしも神様が共におられるのだとしたら、また元の道に戻そうと思われた時に戻してくださるさ。
 神様、あなたが共におられるかどうか疑ってしまうわたしがいます。どうか、わたしに真実を教えてください。わたしは放蕩息子にすぎないのでしょうか?



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