もっと神様との時間を持ちたい

キリスト教エッセイ
この記事は約3分で読めます。

 緊急事態宣言が発令され、割合田舎なわたしの町も公開礼拝は行えなくなり、家庭礼拝を守ることとなった。
 となると、どうしても信仰が弱くなってきてしまう。日曜の10時に礼拝を守ってきたのだが、最初の頃は時間きっかりに家庭礼拝もやるようにしていた。けれど、いつからか時間が段々遅くなっていき、しまいにはYoutubeに牧師がアップしてくれている説教動画をもう土曜日だというのにまだ見ていなかったりする始末だ。
 やはり、人間は環境に影響される、左右される生き物なのだろうか。教会へ行ってアーメンしなければ信仰は弱まっていってしまうのだろうか。
 実は昨日、わたしはやりたいことが見つかったと喜んでいた。そのやりたいこととはわたしが知りたいことである。探究したいことである。キリスト教と性的なテーマについての神学やら教理やら、それらの歴史やら。そんなことをわたしの人生の多くの時間を使って探究していけたらと思ったのである。まさに壮大な目標である。そのためには英語をマスターして専門書を読めるくらいまで高めなければ、と英語の参考書を昨日からまた読み始めたのである。
 だが、それから寝る直前にアウグスティヌス『告白』を読んでかすかな疑問が生じてきた。これを探究したところで一体何になるんだ? どれだけそのことを勉強して収穫が得られるのだろう、と。研究対象としては面白いことは間違いない。けれど、それが本当の意味で自分の糧になるのだろうか、と研究する前から疑問が浮かんできてしまったのである。わたしはたしかにそれを知りたいと思っている。でも、どこかその研究にあまり意味がないような気がしてきてしまったのだ。
 これは神様の御心ではなく、自分の肉なる思いに従って行動しようとしているだけではないのか。神様はわたしに何を望まれているのだろう。わたしに何をやってほしいと思われているのだろうか。わからない。まだ祈りにおいて神様に聞いていないのだから、わからない。昨日だって、寝る前のお祈りをそそくさと5秒くらいで済ませてしまったわたしである。そんなわたしが神様と対話できているわけがなく、ただ自分の、自分がどうなりたいか、どうしたいか、という思いにだけ動かされてしまっている。
 大事なことを神様抜きで自分の考えで決める。これってどうなんだろう。それだったら、わたしには神様が必要ないのだろうかと思わざるをえない。
 何か神様の存在がズドンと自分の中を支配していない。包み込まれる感覚もなければ、ただただ遠くに、それもどこまでも遠くに鎮座されているだけの神様。わたしにとっての神様とは困った時にすがるだけの便利屋さんなのだろうか。困った時だけ呼ぶ。それ以外の時にはほとんど心に留めもしない。うーん、何かわたしが神様に対して冷めていて薄情だということが露呈されてきた。
 某教育テレビの人形劇で「困った時がチャンスですぅ~♪」とか歌うフクロウのおじいさんがいたが、困った時こそチャンスだ。順調に行っていない時こそ、チャンスだ。
 今のわたしにできること。それは祈りの時を持つことだ。24時間のうち5秒だけではなく、もっとまずは10分とか20分とか神様のために使う時間を確保できていけたらと思う。神様のことを考える時間、神様と対話する時間。そうした時間をもっと持った方がいいと思うのだ。
 どうしても肉的に生きていると、祈りの時間をないがしろにしてしまったり、面倒くさく感じたりしがちだ。でも、わたしはそれではまずいと思う。もっと神様との時間をつくっていけたらと思う。
 神様と祈りにおいて対話していたあの頃を思い出すと、かけがえのないくらいいろいろなことを神様が語りかけてくださったように思う。そして、自分が自分の思いに従ってそれしか見えなくなっていることに気付かされたのだった。
 自分の考え、思い、願いなどはあるけれども、それはそれとして置いておき、何をおいても神様からの思いを汲み取っていけたらと思うわたしなのであった。
 神様、あなたの御心に従わせてください。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました