わたしが教会の機関誌に投稿するのを断念した文章

キリスト教エッセイ
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 以下の文章はわたしが教会の機関誌に投稿しようと執筆したものである。しかし、母に読んでもらったところ、わたしが男性陣に敵を作ってしまうのではないか。女性陣もかえって気まずくなってしまうのではないか。と双方に良くないことが予想されたので、急遽投稿を取りやめてこのブログで発表するに至った次第である。この記事はわたしが所属している教会が特定されなければ発表しても差し支えないのだが、教会の機関誌となっては個人名は伏せてはいるものの概ね特定されてしまう。よって教会の機関誌に投稿するには不適当である。ただ、わたしとしてはいいことを書けたと思ったのでお蔵入りにしてしまうのは避けたかった。そういうわけでこの場を借りて発表することにした。この記事はなかなか我ながら根深い問題を射抜いていると思う。あなたが考える上での材料となったら幸いである。

 忘年会のひとコマから考えたこと

 あれは数年前の教会の忘年会での出来事でした。みんなで持ち寄った料理を食べ、お酒も飲み、楽しい話をして、それはそれは楽しい忘年会でした。
 と書いてしまうとありきたりですが、実は流しで女性陣がキレていたのです。理由は明白で、男性陣が食器洗いなどの片付けに協力しようとせず、自分たちだけお酒を飲み続けていたからです。食器を流しまで持ってきてくれるのはよかったのですが、女性陣としては手伝ってほしかったようなのです。
 私と他の男性陣とでは受けてきた教育も違うのでしょう。私の頃からやっと家庭科を男女共同で勉強するようになったのですから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれません。
 男女で助け合ってやっていきましょう、といった教育を受けてきたわたしは流しで女性陣と共に食器の片付けをしていました。そして、彼女たちの怒りと共にいたのです。
 男女のボタンの掛け違いとはもしかしたらこういうことからではないのか、と私は未婚ですが思います。
 イエスさまが食器の片付けをされたかどうかについては福音書には書かれていません。食事のシーンは頻繁に出てきますが、その点は分からないのです。でも、もしかしたらイエスさまも食器の片付けをされていたんじゃないか、と想像を膨らませてみたりもします。何しろ弟子たちの足を洗われたイエスさまです。食器の片付けをされていてもおかしくないのではと私は思います。
 少なくとも仕えることを私たちに求めておられるイエスさまですから、おそらく食器の片付けも自らすすんでやりなさい、と言われるのではないでしょうか。
 夫は家の外で大変な仕事をしてきてとても疲れていることでしょう。でも、そんな状態であるにもかかわらず家のことを手伝ってくれたとしたら妻は夫に心から感謝することでしょう。これは夫婦の関係に限らずあらゆる関係において言えることではないでしょうか。
 ちょっとしたこと。本当に些細なことのように思えるちょっとした気遣いも隣人愛の一つの表現ではないかと思います。
 結構偉そうなことを書いてしまいましたが、私もほとんどできておりませんのでご心配なく。でも、方向性としてはこれで合っていると思うのです。
 日頃の感謝の気持ちを込めてたまには食器の片付けをやるのもいいかな、と考えさせられた忘年会での出来事でした。

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