わたしは空っぽ

キリスト教エッセイ
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 時々わたしは自分のことを「あぁ、空っぽな人間かもな」と思うことがある。今までいろいろな経験をしたり、勉強したりしてきた。けれど、何にも残っていなくて空っぽなのかもしれない、と思う。
 わたしは何かの専門家ではない。何かについて専門的で体系的ないっぱしの知識を持っているわけではない。でも、それが何かとても愛おしく感じられるのだ。何者でもない。何者にもなれていない(もちろん洗礼を受けてキリスト教徒にはなったけれど)。そんな悪く言えば、専門を持たず、いろいろなことをつまみ食いしては渡り歩いているような中途半端な人間。
 でも、これがわたしなのだ。この中途半端で何もものになっていない、達成できていない。それがわたしなのだ。
 今まではそれがすごく嫌だった。何か立派な資格がほしいと思ったし、何か人に誇れるような肩書きがほしいものだと思っていた。何が何でも三流を脱したかったのだ。でも、たしか高校の時の卒業文集にこんなことを書いた人がいたんだけれど、ある人は一言「アマチュア万歳!!」って書いたんだ。わたしはその時は何言っているんだろう程度にしか思わなかった。けれど、今になってみると、プロにならずアマチュアでいること。そのことにもなにがしかの価値はあるのではないかと思える。もちろん、何かのプロになれるのなら、それはそれで素晴らしい。でも、そうした専門家になれない人はたくさんいる。じゃあ、専門家になれない人はダメかと言えば、そんなことはなくてオールラウンドにはできなくても専門家を超えている分野はきっとおそらくあることだろう。
 と、力んでみても何も始まらない。と、ここでわたしは別に空っぽでもいいんじゃないかって気がしてくるのだ。これは負け惜しみではない(まぁ、負け惜しみにも十分聞こえるけど)。ただわたしがこう思うっていうだけの話だと了解してほしい。
 知識って武器とか鎧(よろい)だと思うんだ。それらがあれば、ないよりは強くあることができる。だから、人はみなそうしたものを手に入れようと必死で努力するんだ。わたし自身、知識には助けられているところが大きいから、それらを全部捨てて丸腰で、いやもっと捨てて丸裸でなんて言うつもりはないけれど、それでも知識は人を高ぶらせるものだとは思う。「俺はこれを知っている」「わたしはこれを知っている」。たしかに医者だったら、患者に治療をするために医学的な知識は必要で、それなしにやったらヤブ医者で害悪ははなはだしい。でも、そういう場面ではなくて、人対人の場面の時にはかえってそうした知識が上下関係を作ってしまって水平ないわば対等な関係は難しくなるんだ。そんな時、空っぽな人はただ空っぽなままで相手とかかわる。わたしは何も持っていません。わたしは何もできません。でも、あなたの話を聞きたいです。それだけで十分じゃないかって気がする。どっちが偉いとか、どっちが知識が豊富とか、どっちが頭がいいとか、そんなことどうだっていい。ただ、相手の話を聞きたいと思っている。空っぽなのだから、相手を助けたり、助言を与えたり、何か気の利いたことなどもちろん言えない。でも、それでいいんじゃないか。
 今まで学んだこと、経験したこと。それらが記憶から消えてなくなった時、わたしは何が言えるのだろうか。覚えているのはイエスさまのお名前だけ。あとは全部忘れた。もしかしたら、本当に必要な知識はイエスさまのお名前だけなのかもしれないって思う。誇るものはもうわたしにはないし、誇りたいとも思わない。それでいいような。むしろ、それでいい。
 イエスさま、空っぽなわたしと共にいてください。

P.S. と書きつつも進歩向上したいという気持ちをわたしはなくすことができない。矛盾している。明らかに矛盾している。でも、それもわたしなんだよなぁ。

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