リスペクト

 テレビをつけても、ラジオをつけても、新聞を広げても、どこもかしこも「これが正解です」と言わんばかり。様々な思想が飛び交い、ライフスタイルが提案され、「これしかない」と強気で主張する人たち。みんながみんな強気ではないのだけれど、それでも自分の人生の多くの時間を費やしてきた生き方というだけのことはあって、どんなに控え目な人であっても自信はあるようだ。
 その自分が実践している生き方なり、思想なりが別の誰かによって否定される時、そこには怒りが生じる。自分が大切にしているものをけなされたことへの怒り。踏みにじられたことへの怒り。それもそうだろう。だって、その人はそれを否定されてしまったら「あなたの人生無駄でしたね。ご苦労様」と言われるに等しいからだ。たとえば、わたしがキリスト教神学を勉強しているとして、それも本当に心血注いで多くの時間をかけて勉強しているとしたら、それを「意味ないね」と言われたらどんな気持ちになるかと言えば、察するのは実にたやすいことだろうと思う。
 なぜかは分からないけれど、ふとわたしに「働け」とこのブログのコメント欄で言ってきたYのことが思い出された。働いている人間と働いていない人間の正面からのぶつかり合い。一言で言えば、そんな感じだった。で、あまりにもわたしの生き方を彼は否定してくるものだから、本当に頭にきて「あなたのようにはなりたくない」ってわたしは返答したんだった。お互いが大切にしているものを否定し合う。これって不毛だよね。
 神様は十戒の安息日の規定のところで、一週間のうち6日は働きなさい。そして、安息日に休みなさい、って言われたんだ。つまり、仕事をして働きなさいってことのようだ。わたしはクリスチャンだから、神様の命令に従う義務がある。そう単純に素直に考えるなら、わたしは働いていないのだから神様の掟に逆らっていることになる。でも、とここで苦しい言い訳をするのであれば、たしかにわたしは賃金が発生する労働はしていないけれど、勉強したり、料理をしたり、ごみ出し、洗濯などの家事の多くをやっている。これらは仕事としては認められないのだろうか。もっと根源的なことを言うのであれば、生きていること自体が仕事ではないだろうか。すぐちょっとしたことで死にたくなるわたしにとってこの毎日の生活というのは仕事のようなものだ、と言うのは断じて甘すぎるのだろうか。Yだったら、「甘い。そういう風にぐだぐだ言っている暇があるのだったらとにかく働け」とわたしに言うことだろう。
 ともかく、この神様からの十戒であっても、わたしの解釈を用いるなら、わたしだって立派に仕事はしているし、神様の前で十分勤めは果たしていると思うのだ。
 大抵、人と人が言い争いを始める時というのは、自分の正解をお互い相手に押しつけようとする時ではないだろうか。神学的な物言いをするなら、本当の正解を知っているのは神様だけだと思う。人間もある程度は正解を知っているけれど、絶対的な100%正しい正解というものは知らないと思うのだ。もちろん、自分や人を傷つけることを相対的にとらえて、それらが絶対的にいけないことではない、などと言うつもりはわたしにはない。それらはダメだと思うのだけれど、例外だってあるだろうし、何が何でもどんないかなる場合においてもダメなことだ、とは断言できない。最後は神様だけがご存知の領域。
 しかし、前言撤回するけれど、わたしにとってこれは、と思う掟はイエスさまが言われた「互いに愛し合いなさい」である。この掟、すごいんだよなぁ。これに反しながらできる悪いことって何にもないんだ。
 さっきの話で考えると、自分の正解を相手に押しつけることにしても、それが愛し合えているか、と問われれば違うと言うしかない。いや、これは相手を正しく導くための愛の鞭なんだと正当化することもできなくはないものの、その鞭によって言い争いが始まるのだから、わたしはこれは違うと思う。
 もしも愛のある物言いをしているのであれば、それは相手に伝わる。押しつけるというのは愛のない物言いだと言ってもいいかもしれない。
 それに変わりたいと思っていない人にどんなに口を酸っぱくして言っても、ただそこには抵抗や反抗が生じるだけ。適切な時期に、適切な言葉で。そうでなかったらその言葉はただの雑音だよ。スポーツで考えてみても、スポーツ教室とか部活動で指導者からこうした方がいい、って言われて素直に受け入れることができるのは、上達したいっていう気持ちがしっかりとあるから。上手くなりたいとも何とも思っていない人にアドバイスしてもそれは無駄ではないだろうか。むしろ、「わたしは楽しむためにやっているのに余計なことを口出しして」と反感をもたれるのが関の山だ。だから、働きたいとは思っていない人間に「働け」と命令するのは無意味な行為だと言える。その人が機が熟して、その一押しをしてもいいという絶好のタイミングが来た時に背中を押す意味での「働け」は響くだろうとは思うけれど。
 少なくとも、相手に自分の考えを押しつけて変えようとする人は安全な人だとは言えない。安全な人は、相手を批判しないし、アドバイスだって本当に状況を見計らって慎重にする。人に何かをすすめることにだって神経を使うくらいなんだから。
 相手に「こうしろ」「これやれ」と命令する時、そこにあるのは自分の方が相手よりも正しいという意識だ。相手は間違っていて、その間違っているお前のために教えてやっているんだ。そうした傲りがそこにはある。自分がもしかしたら間違っているかもしれない、という謙虚さや慎重さはその態度には微塵も感じられない。俺は人生の正解を知っていてそれを教えてやっているんだから従え。なぜなら、それは絶対正しいからだ。
 そうじゃなくて、わたしは共に生きていきたいな。共に生きていく、つまり共生するためには相手へのリスペクトが必要じゃないですか? 自分と違う相手を無理矢理、自分と同じようにするのではなくて、違いを認め合うんだ。だから、わたしはYを否定してはいけないし、Yだってわたしのことを否定してはいけないんだ。お互い話をすれば噛み合わなくて平行線なところも多いだろう。でも、否定してはダメなんだ。相手の存在を否定してはいけないんだ。その人の歩んできた、そして現に歩んでいる人生にリスペスト。敬意を表する。「頑張ってるじゃん」「よくやってるよ。ご苦労様」っていう言葉をお互いかけ合うんだ。
 と書いてはみたものの、これが本当に難しい。異文化理解みたいなもんだからね。
 リスペストする姿勢がこれからの時代、求められていくだろうと思う。「よく頑張ってるね」とお互いねぎらえるようになった先にはきっと新しい関係性が広がっていくんだろうな。
 リスペクトすることが難しい相手をリスペクトする。否定して切り捨てるんじゃなくて、ね。そこから始まっていくんだよ。

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