まずは半径3メートル以内の幸福から

いろいろエッセイ
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 昨日、水島広子先生の対人関係療法の本を読んでからというもの何だか調子がいい、というか気分がいい。肩の重荷が下りたような、そんな解放感さえある。
 今までのわたしは好かれたい人たちを広げすぎていた。要するに、認めてもらいたい人たちが多かった。多くの人からの承認を得ようと漠然とながらも思っていたんだ。でも、その必要がないということが分かった。自分にとって最も身近で、最も大切な人。その人に分かってもらえればいいのだ。何もみんなからアイドルとか人気者のように黄色い声援を浴びたり、拍手喝采される必要はない。逆にそれを求めてしまうのだとしたら、基本的な充足感が得られていないということなんだ。もちろん、基本的な欲求というか、自分が人気者であろうとなかろうと、そんなこととは関係なく無条件に愛してくれる人がいた上で、それでも人気者になりたいんだという欲張りな人もいるかと思う。でも、大方、芸能人とか人にチヤホヤされるのが好きな人というのは心の闇を抱えているのではないか。欲求不満な状態を何とか満たそうとして、必死になって多くの人たちからの承認を求めている。そんな構図が見えてくるような気がする。人気者にならなくても自分自身が満たされているのなら何で人気者になろうとするんだ、という話だ。身近な大切な人とあたたかい関係を築けていて、それに心の底から満足できているとしたら、どうしてあえて不特定多数からの、多くの人たちからの承認や賞賛を求めるのだろう? いやはや、核心をついておりますな。
 あるいは、もう一つの行き方としては、もうそういったこの世的なものには一切価値がないんだと切り捨ててしまうものもある。どんなに多くの人からの承認を得てもそれは空しいものでしかないんだから、最初から追い求めるだけ無意味だという考え方と言ったらいいだろうか。そして、対人関係療法でいうところの重要な他者についても手放してどこまでも孤独な孤高の道を目指していく、みたいな生き方をする。執着をどこまでもどこまでも断っていき目指すところは無一物の平安。たしかにわたしもそれに憧れていた時期があった。すべてを手放して身軽になり、自由な境地で生きていきたいんだと思ったこともある。でも、それは圧倒的少数派の道ではないかと思う。そこまでいろいろなものを捨てていって、それで心穏やかというのは凡人にできることではない。やっぱり、人は何だかんだ言っても誰かからの承認がほしい。自分で承認すればいいだけなのかもしれないけれど、それでも自分以外の誰かに認めてほしい。そして、ほめてほしいし、自分の思いや考えに共感してほしい。一緒に泣いて、一緒に喜んでくれる人がいてほしいと思う。それが普通の人にとっての思いではないだろうか。
 だからわたしはある程度は手放して身軽になっていこうとしながらも、完全には手放さないようにしていけたらなと思っている。執着を手放していこうとする。けれど、重要な他者という支えはしっかりと持ち続けるようにする。手放す、手放さない、そして手放すとしたらどこまで手放すかというのは本人次第で本人の自由だ。こうでなければならないというものはない。好きなように選べばいい。と、ある意味中途半端な感じでやっていけたらと思う。
 が、ここで一つ不安なのが重要な他者、わたしで言うならば母が死んでしまったらどうすればいいのか、ということ。重要な他者にそれも一人だけに一点集中させていたら、その関係が破綻したり、消滅したらもう生きる希望が持てなくなってしまう。はて、どうしたものか。そうなったらそうなったで、またその時には新しく重要な他者を作るしかない。まぁ、母親を亡くして寂しくなれば男友達や女友達、あるいはパートナーなどがほしくなることでしょう。だから、案ずることはない。その時、その時、出たとこ勝負でやっていけばいい。また、その時にはもう重要な他者を必要としないような境地になっているのかもしれないし、まぁ、先のことを考えてクヨクヨしても仕方がない。なるようになるさ、と思うしかないのだ。
 あぁ、そういうことか。人は生きる上で支えになるものが必要ってことなんだな。それが友達だったり、親だったり、パートナーだったり、はては神様だったり、教会や何かの同じコミュニティの仲間だったり、人ではないものの何かの思想だったり、信念だったり、ともかく人は何かに支えられて生きている(メンタルが本当に強い人は自分だけで生きていけるのかもしれないけれど、そういう人はごく少数で例外的だろう)。つまり、支えになるものをしっかりと持てば精神的にも健康な状態でいられるのであって、それがなくなってしまうと不安定になるっていうことなんだろう。
 対人関係療法に出会ってものすごく肩の荷が下りたわたし。だからもう、いたずらに多くの人からの賞賛を求めるということもないだろうと思う。でも、やっぱりあの蜜の味が忘れられなくてまた求めてしまったりして(笑)。それは分かりませんし断言できませんね。未来がどうなるか分からない。だから面白いとも言えるんだしね。
 ブログのアクセス数というのは、円の一番外側の人たちが自分のブログを見てくれた回数だから、そんなに重視することもないんだ。それよりは、信頼できる大切な人に「最近のわたしの記事、どうだった?」と訊いて意見を求めることの方がよほど大事。たとえその評価が身内ゆえの身内びいきだとしても、外の世界でたくましく生きていくためにも内側の安定が重要なのであって、それは侮ることができないのだ。だから、不特定多数の人たちからはほどほどに評価してもらえればそれでいい。支障のない範囲でやれればいいのだ。逆にどんなに人気者であっても、自分の家庭が幸せでないとしたら、やっぱりそれは不健康なのであって改善しなければならない。まずは、自分の家庭を居心地のいい場所にする。家庭の平和。ここにこそ、すべての基礎があるのだと思わずにはいられない。どんなに外で喝采を浴びても家が荒んでいたらそれは幸せとは言えない。少なくともそれはたしかなことだ。
 家庭の平和。そのために重要な他者としっかりと常日頃からコミュニケーションをすること。この当たり前、当たり前のことをどれだけしっかりとやれるか。半径3メートル以内の幸せをまずはしっかりと考える。広げていくのはそれがしっかりとしてからで遅くはない。地に足のついた考え方を日本に紹介してくださった水島広子先生には感謝感謝、という次第なのであります。



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