星の読書日記10冊目「死を想う時、人は本当に生きるようになる」~清水研『もしも一年後、この世にいないとしたら。』

星の読書日記
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 この本(清水研『もしも一年後、この世にいないとしたら。』)を読み終えた時、すごく静謐で穏やかな空気が流れているのを感じた。著者の清水先生がすごく優しい方だということもあるのだけれど、すごく読後にすがすがしい気持ちにさえなった。
 この清水研さんは国立がん研究センター中央病院で精神腫瘍医をされている方で、いわばがんの人に寄り添う精神科医。もちろん、がんというのは命に関わる病気だからその人たちの精神的なケアというのは一筋縄ではいかないだろうと思う。いろいろな人がいて、いろいろなことがあり、でも、そうした彼らに日々寄り添っている。著者のそんなあり方が垣間見られるような感じがした。
 わたしはこの本のタイトルにひかれて読んでみたいと思って購入した。というのも、わたし自身に迷いのようなものがあったからだ。がんを患われている方から見たらわたしの迷いなどちっぽけなものかもしれないけれど、わたしは何て言うか方向性のようなものがぐらついていたのだ。わたしはクリスチャンだからおおむね天国はあるだろう、くらいの気持ちでいる。けれど、しばらく前から教会にも行かなくなって、ヨガにエネルギーを注いで力を入れるようになったものだから(去年の10月の終わりからアシュタンガヨガを本格的にやるようになった)、輪廻とか来世とかそういったものにすごく共感するようになってきていた。が、その一方で、キリスト教にしろインド哲学だったりヨガだったりのインド的なものにしろ、その死生観が実は壮大なフィクションに過ぎず、実は死んだらおしまいなだけで無になるだけなのではないか、という思いもかすかながら持ち合わせていたりもする。となると、結局どうなのよ? どれで行くのよ、みたいな感じになってくることは必死で何だかもやもやしていたのだ。スッキリしないという言い方が適切かもしれないけれど。
 そんな優柔不断で煮え切らないわたしにこの本はやさしく語りかけてくれているようだった。押しつけがましくなく、控えめに、けれど、ちゃんと大事なことはしっかりと押さえた上で。
 確実なこと。それは誰もがいつかは死ぬということ。そして、みんながみんなではないかもしれないけれど(一部の例外はあるという意味で。死ぬまでスーパーマンみたいな人も例外的にはいるだろうから)、多くの人が人生を歩んでいく中で突然病気になったり、ならなかったとしても歳を重ねていき老いて弱っていく。もっとそれを現実に近付けていくと、一年後だって人間には分からない。いや、それがもしかしたら、そうそうないとは思うけれど明日かもしれない。そして、そうなってしまった時に何で今まで適当に生きてきてしまったのだろう、と後悔しないか? 自分が重い病気になってしまって、何で元気なあの時にやりたいことをやっておかなかったのだろう、と後悔しないか? そんなことをこの本はやさしい語り口でありながらも問いかけている、とわたしは受け止めたのだった。
 この本を読んでいた時に思ったのが、世間体とかプライドとか誰かからの評価とか、そういったことを第一の基準として生きるというのはむなしいのではないか、ということだった。誰かから賞賛される。それはもちろん喜ばしいことではある。けれど、それで本当にいいのか? それだけが生きる上での張り合いで、それがなくなってしまうのであれば生きている意味がないとまで思うのであれば、それを第一として生きるのも一つの生き方ではあると思う。でも、わたしはそれを望まないなぁと言いたくなった。それよりは自分のやりたいことや好きなことに多くの時間を割いて、この限りある人生を楽しく有意義に生きたい。どうやらそれがわたしの人生における基準のようなのだ。
 本の中に出てきたmustとwantの話。すごくためになった。と言うよりも、みんな割合だったり強さの比率は違うものの両者を持っていて、それによって日々の行動が決まり、何かをやり、やらないといったことを決めている。mustばかりになってしまうと息が詰まるし、wantだけになってしまってもどうせ人間死ぬのだからと飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎを毎日しかねない。わたしはそのバランスが大事なんじゃないかと思っているけれど、たしかにmustの自分が強すぎる人の場合にはもう少しwantの自分の声も聴いたほうがいいと思った。でも、もしかしたらだけれど、人生というものは案外好きに生きてもいいものなのかもしれない。そんなようにも思えないこともない。それを宗教だったり社会規範だったりするものが、好き放題やらせないように縛り付けてきたのは周知の事実だけれど、そうしたものを全否定できないながらも、もう少し自由に生きてもいいのではないか。公序良俗に反したり、違法なことはダメだけれど、それ以外のことであれば何でもありなんじゃないか。何か本を読んでいたらそんな風にも思えてきて、肩の荷が少しばかり下りたような気がした。
 何のために生きるのか、とか、どうせ死ぬのに何で生きなければならないのか、などと問う人というのはやっぱり現状に不満がある人なのだと思う。本当に毎日やりたいことがやれていて思う通りの生活ができているのであれば、そうしたことはおそらく問わないし、思い浮かびさえしないことだろう。何のために生きるのか? そう、それは苦しい状態が続いているこの毎日を何のために生きるのか、いや、生きなければならないのかという切実な問いなのだ。
 しかし、原理的にというか理屈の上で納得したくて、どうせ死ぬのになぜ生きるのか、と問うことはできる。でも、それを問うたところで何になるのかという気がする。
 と、本の感想から逸れ始めているようなので、また話を戻すと、この本の言いたいことは、もしも一年後、この世にいないとしたら、あるいは病にふせているのだとしたら、あなたは今何をやりたいですか、ということ。考えてみれば、健康というものは、元気に動けて活動できるというのはとても有り難いこと。けれど、そのことに気付くのはおそらくその健康を失った時であって、それまではただ何も考えずに生きている。そんな意識の低い、今に感謝することなどできずに日々暮らしているわたしたちにできることと言えば、この当たり前の日々が永遠に続くものではないとしっかりと自覚して、死を見つめながら生きることではないのか。まぁ、わたしはおそらく明日死ぬことはないだろう。そして明後日もおそらく生きている。でも、一年後にも果たして生きているかどうかと言えばそれは何だか怪しくなってくる。それが20年後、30年後ともなればますます分からない。が、今の日本では人生100年時代だからライフプランを立てて計画的に100年くらい生きるものだと考えましょう、みたいな風潮がある。たしかに多くの人は少なくとも7、80年は生きることだろう。でも、それまで生きられない可能性だって十分にある。たとえどんなに確率が低くてもそれが自分に的中して命中してしまえば、それで一巻の終わりなのだから(1万人とか10万人に1人がなる病気だとしても自分がそれになってしまえばどんなにそれが確率が低いことだとしてもそんなことは関係ない)。とは言っても20代の死に怯えていたころのわたしのように「明日死ぬのではないか」「次の瞬間にも死ぬのではないか」というのは違う意味で生きづらくて苦しいからそこまで脅迫的になるのは良くないとは思うのだけれど。要するに100年生きるものだとばかり思って人生100年計画を立てたはいいものの、50歳くらいで急に病気になって余命わずかとなりました、ではほとんどその計画は意味を持たないということなのだ。人生計画とか人生予報などというものはあてになるようであてにならないのではないか。不測の事態がいつ起きるか分からないのだから。といって、だから有り金を全部パーっと使っちまおう、というのもまた極端すぎる。あとは野となれ、山となれという放蕩や散財もまたそれはそれでもう少し計画的にやろうよ、と言いたくなってくる。
 こう考えていくと何事も過ぎたるは及ばざるがごとしでほどほどがいいのだろうか。でも、ほどほどでありながらも自分のやりたいこと、それも譲れないことはしっかりと後悔しないようにやっていく。そんな生き方がいいのではないかとこの本を読み終えた今、わたしは思う。やりたいことをひたすら我慢して世間体とか見栄とかそういったものに縛られっぱなしで何一つとして自由にできないあり方。つまりmustの自分に支配されたあり方。一方、それとは逆にwantの自分だけで宴会しまくりで飲めや歌えやとまるでこの世の終わりにどんちゃん騒ぎをするかのような生き方。お金をすべてあっという間に使い尽くして、これからとか先のこととか全く顧みないあり方。そう、どちらも極端すぎる。これは言うまでもないことで、わたしがいいと思うのはその真ん中くらいでありながらも、しっかりと思慮分別を保ちながらやりたいこと、やっておかなければ死ぬ時に後悔するようなことをちゃんと元気な時にやっておくようなあり方だ。そして、もしも一年後にもうこの世にいないとしてもかまわない。やれることはおおむねやったから、と死を見据えつつ悠然としているようなそんなあり方。もうやることは大体やれた。もう思い残すことはない。生きていられればもちろんいいけれど、いつ死んでもそれはそれでかまわない。思い残すことはないんだ。そんな風に思えるような生き方をちゃんとしていけたらいいなとわたしは改めて思った次第だ。
 と書きつつもわたしは2月の中旬に死ぬかもしれない。ってがんとかなんですか? いえいえ、一昨年にその日に死ぬと夢でお告げがあったのです。そして、去年は幸いにも何事もなく死ななかった。でも、今年はどうなのか分からない。というわけでそのお告げに少々、いや、かなり怯えている星さんなのでありました。この死ぬ日の予告。数十年後のその日なのか、それとも数年後なのか、あるいは今年のその日なのか、というのは分からないんだよなぁ。けれど、わたしはおおむねこの人生に満足できているから死ぬのであれば死んだとしても仕方がないと思っているし、まぁ、だいたい後悔はない(ってまるで死ぬ前提で話を進めてしまっているけれど。まだ死ぬと決まったわけではないのに)。ただ一点、一点だけやり残したことがある。それさえできればもういいですよ。悔いはないですよ。ってなわけでそれをやろうかどうか思案中なのだ。ってやらないと後悔するならやるべきでは? いやいや、そうなのですけどそれがね、あんまり大きな声では言えないことでしてね。もちろん公序良俗には反しなくて違法なことでもないのだけれど。なかなか踏ん切りがつかないのです。と、最後に本の感想ではなくて個人的なことをグチったところで締めくくる感じになってしまったけれど。で、結局この本の最初のこの言葉へと戻ってくる。

「自分の人生がいつ終わりを迎えるのかは誰にもわからない。だからこそ、今生きている瞬間をかけがえのないものとして大切にしてほしい」(27歳でがんによりこの世を去ったオーストラリア人女性の最期のメッセージ)

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