上を見るときりがないけれど

いろいろエッセイヨガ
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 今日、スーパーのレジで順番待ちをしている時、前にいたおばさんのかごの中を見たらすごく頭にきた。そう、すごくいいものを入れていたからだ。その一つひとつのものが高めのもので、もうそのおばさんの入れていた2、3点のものでわたしの一日の食費が終わっているくらいの贅沢品ばかりだった。しかも、それが生きていくために差し当たって必要のないような、嗜好品的な要素の強いものばかりでそれもますます頭に来た。
 今日のわたしはメンタルが下がり気味だった。っていうか、人間みんなその日、その日によって生き物なんだから変動はあるよ。絶好調の日もあれば、あんまり調子が良くない日もある。う~ん、何で今日は調子が良くなかったのだろう、と振り返って自分自身を見つめてみると、一昨日の夜から下痢をしていたのだ。幸い、今日になってそれは収まって普通のうんちが出るまでに回復したのだけれど、ここんところ水のような完全な下痢が続いていた。原因はおそらくチョコレートの食べ過ぎか、それに加えて食べ過ぎ。母がバレンタインデーにチョコレートをくれたものだから、そのチョコを食べたのだけれど、小さなチョコレート(一口大)が24個入っている一箱を何と一日で全部食べちゃった。バクバクバク~ってな感じでもうどれくらいぶりなのか久々のチョコレートに興奮して一気に食べてしまった。あとさらには日常的にかなりたくさん食べている感じだったのが相乗効果となってそのチョコの爆食いのダメージを増幅したのか、わたしのお腹は不調となりしばらく下痢が続いていた、というわけなんだ。
 で、下痢をしていたわたしは母のアドバイス通り、ヨガの練習もお休みしてほぼ安静にしていたんだ(寝てはいなかったけれど激しい運動はしない感じ)。つまり、昨日と今日は運動らしい運動もせずほぼインドア。となれば、メンタルが下がってくるというのは自然なこと。わたしは体を動かしていないと不調になるようなのだ。特に規則正しく週5でヨガを欠かさずやっていたわたしにとってこの運動不足状態はなかなか影響が大きい。もちろん、森の公園にもお散歩に出掛けることもなく家の中にこもっていたわけなんだ。
 ヨガができず運動自体もお休みしていたせいか、どうも気持ちが晴れなくてどんよりとしている。と、そこへ高級なものを買い込んだスーパーのレジでのおばさん。いつもだったら何とも思わないはずなのにカチンと来て、一気にネガティブモードに。が、不調日記を書くほどでもなく済んだのがまだ良かった。
 上を見ればきりがない。わたしよりも恵まれている人は大勢いる。むしろわたしは低所得者で貧困層に限りなく近いようなものだから、わたしよりもお金をたくさん使って暮らしている人というのはありふれるくらいいることだろう。そんなわけだから、スーパーでお買い物をしている他の人たちを見ると「あぁ、いいもの食べてるな」って正直思ったりもする。嗜好品だったりいわば贅沢品をたくさんショッピングカートの中に入れているのを見れば気持ちがもやもやしてくる。
 でも、上を見てもきりがないように下を見てもきりがない。日本では生活保護を受けるのが恥だという文化がまだ根強くあって、生活保護を受けている人たちよりも低い水準で生活している人たちがいるのだ。それも一生懸命働いているにもかからわず、暮らしていく上でいっぱいいっぱいで貯金はおろかその日暮らしでという人はたくさんいる。彼らから見たらわたしの不満などというものはカチンと来るに違いない。何も働かず、それでも障害年金をもらって普通に食べていけている。これだけで妬みの対象にならないとしたら、それこそおかしいと思うくらいだ。だって、彼らは一生懸命生きるために働いているのだ。が、それにも関わらず暮らしは一向に良くなるどころかカツカツのままでただきついだけ。不満の矛先はどうしても障害年金や生活保護をもらっている人たちへと向けられる。「おまえら働いてもいないくせにぬくぬく生きやがって」とわたしがもしも彼らの立場だったら絶対言っていると思う。
 と、日本の大変な人たちにふれたけれど、世界に目を向ければもうそんなレベルとは違って下手したら餓死するという状況にある人たちがいる。少なくとも日本では生活保護にさえたどり着ければ餓死するなんていうことはない。しかし、世界ではそうした制度すらなくて本当にのたれ死ぬかどうか、というところで懸命に生きている人たちがいるのだ。彼らから見たら、日本で生活保護よりも低いレベルで暮らしている人、生活保護受給者、障害年金受給者はどんな風に見えるのだろうか。とてもうらやましいんじゃないかと思う。自分も日本のような豊かな国に生まれていたらそれなりに生きて行けたのにと思うかもしれない。
 今、完全な平等を実現するにはどうしたらいいのだろう、とふと思ったのだけれど、それは無理だと思う。なぜなら、人間はみんな違うのだから。勉強ができる人もいればできない人もいて、運動ができる人もいればできない人もいる。人格的に優れている人もいれば人格的に問題がある人もいて、優しい人もいれば意地悪な人もいる。それを平等にしろ、ということ自体がそもそも無理で、そんなことはどだい無理な話。
 勉強ができる人、つまりは知的能力が高い人が優遇される社会では、それができない人は冷たく扱われて肩身の狭い思いをする。それはお金をたくさん得られるかどうかという話にも直結するから、それを平等にするのだとしたら乱暴な話だけれど、みんな同一性能、同一規格の無機質、無感情で無個性なロボットにでもするしかない。みんな顔も体型も能力もすべからく同じ。みんな同じことしかしないし、違いというものがそもそもない。違いがあることによって能力に差が出てきてしまうのだからそれを根絶するためには、そういったものがない世界を作らなければならない。が、そんなことはどうあがいても無理だ。違いは歴然としてあるし、能力だって人格だって優劣はやはりある。
 となれば、もう平等は無理だから人類自体が消滅すればいい。そうすればみんな人っ子一人いなくなって誰もいなくなって平等になる。って、これはヤバイだろう。人類滅亡の方向で行くわけですか? いやいや、これは違う意味での平等になってしまっていて、滅亡の平等とでも言うべき平等だ。
 人類をロボットにするとか、人類自体を滅亡させる、なんていうのは現実的ではないから、その無理がある平等というものをできる限り実現させようと頭のいい人たちは奮闘してきた。だからそもそも不可能で無理なことをやろうとしているわけだから、綻びが出てくるのは当たり前のことで、完璧にやるなんていうのは不可能。その不可能の中で最善を尽くそうとしてきた。それが人類の歴史なのだろう。
 とまぁ、話が酒飲みの居酒屋哲学っぽくなってきたところで、はて何の話をしていたんだっけ? そうでした、そうでした。スーパーでおばさんが高めのものをかごに入れているのを見てわたしが頭に来たんでしたよね?
 でも、冷静に自分の置かれている状況を見つめ直してみると、まぁいいんでないのと思えなくもないということに気付く。わたしよりもいい思いをしている人がいたとしても、だからそれが何だと言うのだろう? 仮にわたしがその人のことをうらやましく、あるいは妬ましく思ったところで、わたしに何かメリットがあるわけではない(うらやましく思うたびに1000円札が空からひらひら一枚落ちてくるとか)。むしろ、『ヨーガ・スートラ』というヨガをやる人必携の聖典には自分よりも恵まれている人のことは「良かったね」と祝福して喜ぶように、みたいなことが書いてあるのだ。うらやんだり、妬んだり、敵意を向けたりするのではなくてむしろ祝福する。「良かったね」と言ってあげる。何かすごくいい空気が流れてますよね。さすが不朽のヨガの聖典。言うことが違いますよ。っていうか、聖者は自分よりも金持ちな人を見ても心を乱さないのです。乱されないのです。そうだよね、聖者が金持ちを見るたびに「うらやましいなぁ」とか「何であいつだけいい思いをして」なんて思うはずがない。まぁ、凡人のわたしはまだまだ修行が全然足りなくて思ってしまうのだけれど、高いレベルにいる人はむしろ一緒に喜んで祝福さえしてしまう。すごいなぁ。心の透明度が違う。
 とりあえず、働いてさえいないのに衣食住に困っていなくて普通に生活することができている。それだけでも本来はありがたいことですごく恵まれている。さらにはわたしには精神障害があるけれど、それ以外は五体満足でどこか病気をしているわけでもなく健康そのもの。今回下痢になってみてシャラ(ヨガの道場のこと)での練習を1回お休みしたのだけれど(行き帰りの間やシャラでの練習中に便を漏らしたくないと思って)、日常的にお腹が差し込んで頻繁に下痢をする人というのは大変だろうなと気付かされた。まさか、おまるを持ち歩くわけにも行かないから、そうなると紙おむつくらいしか選択肢がないことになる。あるいは、さらに人工肛門とかになっていれば周りにも気を遣うだろうし、なかなか当事者でないと分からない苦労はあるはず。
 そう考えていくと、もちろん上には上がいて、恵まれている人は大勢いることにはいるのだけれど、自分だって満更捨てたものではなくて恵まれているなっていう気がしてくる。ただ、自分よりも恵まれている人たちを見て、キーキー腹を立てているだけのことで、自分の置かれている状況とか見えてなかったな、分かってなかったなということに気付かされた。それにもっとお金がほしいのであれば、働けばいいだけのことだし、自分の意志で働かないようにしているわけなんだから生活がカツカツで多少苦しくたってそれは当たり前のこと。っていうか、ミニマリズムの一点豪華主義で節約生活を送ってそれで浮いたお金をやりくりして、ぜいたくにヨガを習いに行かせてもらっているわけなのだから、贅沢はさせてもらっている。だから、いいんでないの。
 上には上がいる。でも、うらやんでも妬んでもただわたしの心が揺れてしまって平静でいられなくなるだけ。だったら人は人、わたしはわたしでいいんじゃないか。シャラで練習をしている時に、華麗に高度なヨガをやっているまわりの人たちと自分を比べて「何てしょぼいヨガしかできないんだろう」と思っても仕方がないように、お金のことについてもまわりと比べても仕方がない。それだったらどうすればお金をもっと得られるか具体的に考えた方が前向きで建設的だし、その前にお金をたくさん得ること自体にそもそも価値があるのだろうか、とじっくり考えてみるのもいいかもしれない。
 焦ってみても、うらやんでも、妬んでも仕方がなくて、わたしはわたしとしてやっていくしかない。しょぼいわたし、スペックの低いダメなわたし、何にもできていない中途半端なわたし。でも、それでもやっていく。そう、アシュタンガヨガのマイソールクラスの練習のようにただ黙々と自分自身が成長していくために練習していくのみ。人は人で、わたしはわたし。生きるという自分の練習をただやっていくんだ。
 いいじゃないの、わたしさん。捨てたものではないよ。とりあえず、自分のペースでやれることをやっていこうよ。そう、ぼちぼちとでいいから、ネ。

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