棚からぼた餅なんてね

いろいろエッセイ
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 訳あって最近、お金の本を読み始めた。すると自分の置かれた状況のようなものが見えてきた。
 わたしは仕事をしていなくて、清貧の思想でやってきた。が、一般の健康な人というか、健常者は65歳で仕事を辞めて年金をもらえるようになるまでとにかく働いて定年後に備えて貯めるらしいのだ。そんな当たり前のことにどうして今まで気が付かなかったのだろうと驚愕したわたしだったのだけれど、あぁ、そういうことなのねと了解した。
 そう、わたしは例外的な存在なのだ。普通の人は働く。生きていくために。生活していくために。それに引き換え、わたしには障害があって仕事をすることが難しい。だから、所得保障として障害年金が支給されている。そして、そのおかげで野垂れ死ぬこともなく生活することができている。
 お金の本には人的資本という考え方がのっていて、それによるとその人が金額的にいくらと価値をはじき出すことができるのだ。いくら稼げるのか、あと何年くらい稼げるのか、というのが重要なんだってね。で、それによればわたしはプラスどころかマイナスなんだろうなって思った。働けない、働かないわたし。しかも、税金が使われている障害年金をもらっていて、まさにお荷物。一体、いやはやわたしが結婚できないのも納得だよ。こんな将来性のない男と誰が結婚したいと思うものか、なんて珍しくネガティブなことをわざと言ってみた(ニヤリ)。
 でも、たしかに経済という意味では単なるプータローでしかないメンヘラ兄ちゃんだけれど、そうであってもわたしにはわたしの人生がある。社会の底辺層には底辺層なりの人生があって、それだって決して捨てたもんじゃない。
 最近思うんだけれど、都会的な華やかなものって意味あるのかね、とか思うようになってきた。これは、もうすでにちょっと読み始めたばかりのソロー『森の生活』から影響を受け始めておりますようでして。何かソローの言葉にふれていると落ち着く。どうしてかと言うと、都会的な華美なライフスタイルをケチョンケチョンにけなしてくれるから。と言いつつもわたしの暮らしているところも結構街の中心部に近いところですけど。ってオイオイ。そんなんでいいのかよ。ただ、『森の生活』読み始めてわかったようなこと言ってるだけで、森の中へさえもほとんど行ったことがないんだろ? そうなのです。はい、そうなのです。おっしゃる通りでして。
 話がちょっとずれ始めたのでちょっと戻しましょうか。さてさて、わたしは何を言いたいのかというと、別にそんなにお金は必要ないということを言いたいのです。あればあったでもちろん嬉しいけれど、そんなに有り余るほどあってもねぇって感じで全然ガツガツしていない。ただ強いて言うのであれば、毎月のヨガのレッスン代とその交通費分くらいもう少しお金があったらなぁと思うくらいで。大豪邸に住みたいとか、毎日豪華な食事をしたいとか、きれいなお姉さんを何人もはべらせて好きなだけ遊びたいとか(あ、でも最後のだけはいいかもな。ってオイ!!)、そういう欲がないんだ。きっとそれを実現できたとしても二週間くらいで飽きてしまうだろうし、何でもかんでも思うとおりになってもきっと楽しくない。そして、貧乏時代を思い出してあの頃自分で作ったスパイスカレー美味しかったよなぁ。母と「おいしい、おいしい」って言い合ってものすごく幸せだったよなぁと回顧するだろうと思うのです、きっと。だから、今の生活も決して捨てたものではなくて、これはこれで味があるんだろうなぁ、てね。
 結局どんな状況になっても(お金をたくさん稼げるようになっても)その今を減点方式で粗探しをしていたら、きっと幸せにはなれない。そうではなくて、今があることに感謝できたらいいなぁって思うんだ。もちろん、手に入れたい物やかなえたい夢や実現したいことというのはあまり欲のないわたしであっても多少はある。でも、それらを掴めなければ不幸かと言えば、そうでもないような気がする。かなわなかったらまた来世でかなえる。あるいはキリスト教的に考えるなら、天国で完全な状態になって満たされるのだからそれを待ち望んでいましょうよ、ということになる。
 逆に何でも思い通りになる、それもすべてのことが思い通りに、なんていう世界ほどつまらないものはない。それって自分が神様状態。自分が全能で何でも思い通りにできる。でも、神様であっても自分の思い通りにしないことがある。それは人間の意志。「いや、遠隔操作すりゃいいだけじゃん」と言いたくもなってくるけれど、そればっかりは神様はなさらなかった。ご自分のことを呪って罵る者がいたとしても強制的にコントロールはされないんだ。どうしてかと言えば、強制的にではなくて自発的に心からあふれるかのような愛を神様は望んでおられるから、なのだと思う。だって何でも「はい、その通りでございます。ご主人様」と応えるようにプログラムされたロボットにそう言われても嬉しくないでしょう? そうではなくて、好意を向けることもできれば敵意を向けることも何ら制限されていなくて自由。それはその人次第となった上で、それでも自分のことを誰かが愛して好意を向けてくれたらそれ以上に嬉しいことはないのだから。
 とまぁ、ここまでいろいろ書いてきたけれど、わたしも本当に働かなければならなくなったら働こうと思っております。それはどうしてもこの人と結婚したい。そして、金銭的にゆとりのある家庭を築き上げたい。子どももほしい。となれば、それが自分にとって最優先事項なわけなのだから「働きたくない」だ何だと言っていられないでしょう。家族を養うため、一家の大黒柱となるために仕事をする所存であります。あるいは、本当に経済的に窮乏して貯金も底をついて、みたいになったりしたら、その時もまた働くかもしれません。とカッコイイことを言ったけれど、結婚したら働くと誓ったものの、「やっぱ嫌じゃあ~」と仕事をすることを拒否するかもしれません(ってそれってダメな男じゃん。今のわたしもダメだとは思うけれど)。貯金が底をついても働かない可能性だってございます。
 でも、まぁいいじゃないの。いいじゃないですか。何も銀行強盗をするとか、サイバー犯罪をするとか、オレオレ詐欺をするとか、そういう悪いことをしようとは思っていないのですから。ただただ少しばかり税金を生活費として使わせてもらうくらいなんだから。ちなみにそれって生きる権利だったりする。生存権ね。
 と毎日ぐだぐだやっていたらいつか運命の人が現れるかもね。棚からぼた餅みたいにね。「お金なんていらない。働いてくれなくてもいい。どんなに貧乏な暮らしでも構わない。ただ大地さんと一緒に残りの人生を歩んでいきたいの」な~んて言ってくれる人いないかなぁ。すごく甘い展開なんですけど。何かその理想のパートナーのこのセリフを書いていたらじ~んと泣けてきたな。最高な人すぎて。こんなセリフ言われてみたいよ。言われたらイチコロだな。でも、ここまでその人に言わせるだけの人徳がわたしにあるのかどうか謎なのだけれど(笑)。ってせっかくのいい話がぶち壊しでやんすよ。気を付けなはれ。
 と、と、と。今日はこのへんで。金はないけれど時間と愛はある星の人生はこれからも続いていくのです。と、言いたいところだけれど、今日は何と一昨年に死ぬと夢で告げられた日。去年のこの日は死ななかった。今年は? 死なないことを願いつつ寝るとしよう。明日も生きていますように。ではでは。生きていたらまた会いましょう。バイバーイ。

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