与える人

いろいろエッセイヨガ
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 皆様、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか? 9月だというのに暑い日が続いていますね。
 と、ご挨拶はこれくらいにして、と。さて、わたしのこのブログ、楽しんでもらえていますでしょうか? きっと、こうして今わたしの文章を読んでくれているということは、何かしらわたしの文章から得るところがあるのだと思う。それは何かの発見であったり、何かの問題を解決しようとしていてその答えだったり、あるいは何となく?、などといろいろ顔も見えない読者様のことを想像してみたりするわけです。まぁ、何も得るところがないとか、何も面白くないということだったら足早に立ち去られていることだろう。だから、何か理由は分からないけれども、ともかくわたしの文章を楽しんでくださっていれば嬉しいし、それでいいと思っている。
 最近、ミニマリズム(最小限主義。モノも思考もお金もありとあらゆるものを最小限にして生きていく生き方)と出合って、わたしは与えるということについて考えるようになった。与えると言えば、真っ先に思い付くのが働いて社会に貢献することだと思うのだけれど、今わたしは働いてはいない。でも、働く働かないということはともかくとして、自分なりに何か人に与えることができるようになったらいいなと思うようになったんだ。それでこの文章では与えることについて考えてみたいと思う。
 わたしもあなたも日々与えていることだろうと思う。その貢献度にはすごく開きがあって、ある人は数千万円とか数億円規模の与えるをやっているかもしれないし、ある人はそんな大掛かりなことはやらずにただ出合った人に微笑んだり、挨拶をしているだけかもしれない。貢献度が大きいか小さいか。でも、わたしはそこには優劣はないんじゃないかと思うし、そう思いたい。ただ微笑む。大きな声で挨拶をする。それだけであっても経済効果はないかもしれないけれど、人の心をほっとさせたり、明るい気持ちにさせたりする。だから、何もお金に換算できて、かつその価値が高いような、そんなことばかりがいいことかと言えばそうとは言えないように思う。
 ある時、とは言ってももう何年前のことか思い出せないくらい昔のこと。その日、わたしは本当に暗い気分だった。まさに死にたい気分と言ってもいいような、そんな最悪の気分。で、わたしは道を歩いていた。すると女子中学生が前から歩いてくるではないか。しかし、その時のわたしは精神状態が最悪だったから挨拶をしようなんていう発想は微塵もなかった。ただ、目を合わせないで通り過ぎようとした。すると、その女の子がわたしに一言、少し明るめな感じで「こんにちは」と挨拶をしてくれたんだ。その瞬間、何か急にわたしの世界に灯りがともったかのように、パッと明るくなったんだ。そして、この世界はもしかしたら捨てたものではなくて、もしかしたらだけれどこんなわたしでもやっていっていいのではないか。そんな風に思えてきたんだ。さらに、その女の子がわたしを不審者とか、こわい人とか、危険人物などと見なさないで普通の人として扱ってくれたということもわたしはすごく嬉しかった。その時のわたしは自分を価値のないダメな人間だと心の底から思い込んでいたから、この価値のないわたしを挨拶するだけの価値のある存在として見なしてくれたようにも思えて、とてもとても嬉しかった。
 もう一つ紹介したいのは、これも昔のこと(何年前か分からないけれどわたしがまだ不調で苦しんでいた頃。おそらく20代後半だと思う)なのだけれど、ある日わたしは魚の缶詰を買いたいと思って一人で歩いてスーパーへと出掛けたんだ。でも、スーパーでレジで支払うところまでは何も問題がなかったものの、その買った物を袋に入れる時になって、凄まじい、普通に立っているのも苦しいくらいの精神的な激不調に陥ってしまったんだ。だから、もうその買った缶詰を袋の中に懸命に入れようとしているのだけれど、入れることができない。まさに異様な支離滅裂モードになってしまっていた。そんな時、近くにいたおばさんが何も言わず、ただ黙ってわたしが買ったその缶詰を袋に入れてくれた。青ざめながらも袋に缶詰を入れなければ入れなければと、もがいていたわたしを救ってくれたおばさん。本当に助かった。まるで海で溺れているのを助けてもらったくらいに本当に助かった。そのおばさんが手助けしてれなかったら、異変に気付いた店員が駆けつけてくれない限り、ずっとそのままで支離滅裂なまま、そして買った缶詰を袋に入れられないまま時間だけが過ぎていったことだろう。
 今挙げた二つの例はどちらも金銭的な価値は発生していない。お金にはならないし、それで利益が生まれたかと言えばそういうわけでもない。でも、わたし見知らぬ女子中学生とおばさんから与えられたのだ。女子中学生からは挨拶というギフトを。そして、おばさんからは優しい思いやりを。
 こう考えるとどんなに些細で大したことのないようなことであっても、その一つひとつにはしっかりと意味があり、価値があるということが分かる。二人ともわたしに何も大したことをしたとは思っていないだろう。何も、与えたとすら思っていない。でも、その些細な行為は立派に与えることができていた。たしかに金銭的な利益がその与えることによって向けられれば、そういった利益がないよりは嬉しいものなのかもしれない。でも、そういうことではない。どんな与える行為もお金に換算できない。ただ、働いたり何なりすれば一応それに対して、目に見えるそれ相応の対価が発生するだけのことで、そもそもそうした何かを与えたことの価値自体はお金の多寡で表現できるものではないんだ。
 だから、わたしは微笑む、優しい言葉をかける、気遣う、挨拶をするだけでも立派に与えているのだと思う。ともすると、与えるという言葉には金品を相手に贈るようなイメージがつきまとうけれど、それにこだわる必要もない。お金だったり高価なものを相手に贈って与えることと同じか場合によっては、それ以上のものを些細なことで与えることができる場合だってある。
 そして、世界は与え、与えられてそれがひたすら繰り返されて回ることができている。それによって成り立っている。わたしは働いていない。だから、フリーライダーと呼ばれるタダ乗りをしているだけの人間のように見えるかもしれない。でも、小さなことはささやかながらもできているのではないかと思っている。たとえそれが身近な人に微笑むことだけであっても与えることはできているし、道ですれ違う人に挨拶することもそう(ただいつも100%無視する特定の人には挨拶する気がしない。わたくしは未熟者です)。
 というわけでして、わたしの与えることの中の一つであるこのブログの文章を楽しんでいただけましたら幸いなのであります。何か、ほっこりでもまったりでも何でもいいので、少しでも何か感じていただけたら嬉しい限り。
 豊かな人、それも本当の意味で豊かな人とは与えることができる人のこと。ミニマリズムだったり、ヨガだったりで言うところのこの考えをもっともだなぁと思いつつあるわたしなのです。



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