お金

 もう20年ほど前のことになる。わたしが20歳くらいのころの話。
 わたしは大学生で親元を離れて下宿生活をしていた。あれは統計学の授業だったと思う。その時に、その先生がわたしたちに語ったことがとても衝撃的で記憶に鮮明に残っている。たしかこんなことを言った。
「ぼくらは金持ちがはした金として使うお金を手に入れるために死に物狂いで働いているんです。それを思うとき、やりきれない気持ちになります。」
 この言葉は20歳そこそこだったわたしの心に不思議な余韻を残した。普通、大学の教師だったらこれからを生きていこうという若者にこんな言葉を語りかけたりはしないだろう。もっと希望にあふれる前向きな言葉をかけるのが普通だ。しかし、その教師は真実をズバリと射抜く。透徹な眼差しで真理を語った。今ではわたしはそんな風に思っている。その先生はアメリカ留学もしている。おそらくそこで貧富の差も目の当たりにしたことだろう。そうした体験からそんな一言がこぼれたに違いない。
 この一言は本当に深いところをえぐっている。わたしはぼちぼち貧困と飢餓の問題についても学んでいるんだけれど、つまりはそういうことなんじゃないかって気がする。
 この先生の箴言をさらに広げていくとこうも言える。
「金持ちがはした金として使うだけのお金が貧しい人に回されれば、多くの人たちが死ななくて済むのにそれがなされていないのです。それを思うとやりきれない気持ちになります。」
 つまり、この世界はどこかおかしいのである。自分のお金をどこまでも膨らませていく人がいるかと思えば、一方ではお金がなさすぎて死んでいく人がいる。わたしは単純なのかもしれないが、たくさん持っていて有り余っている人が持っていなくて困っている人に分けてあげればいいのに、って思ってしまう。たくさん持っている人は持っている分を元手にしてそれを増やせる。けれど、持っていない人には何もない。
 こんなことを考えていると、働く気持ちがなくなってくる。わたしがどんなに頑張って働いても、金持ちが資産をもとに増やしていく分からみたらまさにはした金だ。そのわずかなお金を得るために死に物狂いで働く。働かなければならない。
 わたしにとって受け入れがたいのは、金持ちが捨て銭のようにホイサホイサ使うお金を得るために自分の命を削らなければならないことだ。まったくもってして、それがわたしには不条理に思える。わたしの命の価値はその捨て銭程度の価値しかないの、と思えてきてしまって悲しくなってくるのだ。
 ましてや、その金持ちの捨て銭があれば助かる命がいくらだってあるんだ。何万、何百万の人々が救われて命が助かるんだ。ということは冷酷な金持ちにとっては貧困にあえいでいて今にも死にそうな人たちの命の価値ははした金以下だってことなの?
 別に金持ちに全財産を差し出せとか言いたいわけじゃない。ただあまりにもひどいんじゃないかと言いたいんだ。
 わたしが喉元まで来ているけれど、言えないこと。もう察してくれてるよね? だからわたしはあえて言わない。
 世界の貧困・飢餓問題を解決するには一体いくらお金があればいいのだろう。もしかしたら、世界の軍事費の一部を回すだけでもう問題は解決してしまうかもな、と想像してしまう。食糧については、公平な分配をすれば世界人口が120億人になっても十分養えるという試算があるくらいだから、現在70億の人間が食べていくことは十分できる。だから、意外と世界がやる気になれば、案外すんなりと大方の問題は片づいてしまいそうなのだ。
 この矛盾だらけのどうしようもない世界に終末が訪れて、最後の審判が行われる時に私利私欲を肥やした金持ちたちは断罪されるのだろうか。わたしはすべての人に救われてほしいって考える方だけれど、それでもこの闇を前にすると、やっぱり裁きはあるのかなって思ってしまう。イエスさまは金持ちたちに鉄槌を下されるのだろうか。復活した金持ちたちに裁きを下されるのだろうか。でも、金持ちってどこからどこまでがそうなの? 日本人はアフリカの人たちと比べたら貴族のような生活ぶりだから、多くの日本人も金持ちとして認定されてしまうのだろうか。神様の金持ちの定義って分からないなぁ。それはともかくとして、聖書に金持ちとラザロの話が出てくるんだけれど、わたしは貧しいラザロのような人にしっかりと何か出来ているだろうか。金持ちになることばかりに憧れてしまっていて、ラザロを足蹴にしていないだろうか。視界に入れないように、見ないように無視してしまっていないだろうか。こんなことをわたしは反省してみる。他にも、貧しい人に施さなかったがために地獄行きが決まってしまうっていう話も聖書にはしっかりあったよね。わたしはそれらの話がとても身につまされる。「じゃあ、あなたは何をやっているんですか?」と聞かれようものなら、「一応できる限りの寄付はしていますけど」くらいのことしか言えない。
 お金。わたしはこのことを考え出すと、自分のどす黒い負の感情がこんこんと沸き出してくるのを感じる。お金は人間を狂わせるものでもあるんだと思わずにはいられない。でも、だからこそ使いようによっては人を幸せにすることもできる。お金は人を生かしもすれば殺しもするんだな。
 わたしは20年くらい前にあの箴言を聞かせてくれた教師に今だったら何て言ってあげようかな。そうだな、こう言おう。「たしかにわたしたちは金持ちが使うはした金を得ようと人生でもがきます。でも、その金持ちから見たらはした金にもならないようなそんなわずかなお金であっても、みんなで貧しい人に持ち寄ればそれはとてもあたたかいお金になるんです。金額は金持ちから見たらやはりはした金にすぎないことでしょう。でも、金額もあるかもしれませんが、その善意はどんな大金よりも優ると思います。やりきれない世の中に小さな灯りをともしていきましょうよ。」
 あたたかいお金の使い方をしていけたらと思った星なのでした。

詩篇とわたし

「シヘン、シヘン、シヘン。」
 ウルトラセブンのオープニングテーマの冒頭のメロディーがわたしの中に替え歌でこだましている。
「とーっても詩篇ん~、読みにくい♪」と続いていきそうな、わたしの替え歌はこれくらいにして、聖書の詩篇とわたしについて個人的なことを書いていきたいと思う。
 わたしにとって詩篇は何だかよく分からないなぁというのが率直な感想で、未だにわたしは苦手意識さえ持っているのだ。何しろ、まず読みづらい。短い言葉が散りばめられていて、それはそれは読みづらいのだ。わたしは説明的な文章の方が得意で、詩というジャンルがまず苦手。詩篇にも論理は通っているけれど、その途切れ途切れのような文章はすんなりとは頭に入ってこなくて、読んでいて疲れるし、最悪の場合イライラしてくる。だから、わたしと詩篇の相性はあまり良くなくて、聖書を読む際にもどこか距離を置き続けてきた。
 そんな詩篇を読もうと思い立って、今日で二日目。だいぶこの読みにくさにも慣れてきた。人間、慣れってあるもんなんだな。だんだんこの詩篇を読むことが心地良くなってきたものだから、人間は環境に適応するものなんだな、と思った。
 最初通っていた教会の牧師が詩篇をしきりにわたしに勧めてくれたことを今ふと思い出す。「祈りの書ですからぜひ読んでください。」そう言われて素直なわたしは詩篇を集中的に読もうと挑戦してみた。が、続かない。はっきり言うまでもなく、何も面白いとは思えなかった。ただただ、しんどかった。信仰を育むいいもの。分かっている。この詩篇全編を流れている神様への信頼、信仰の姿勢には教えられるものがあると今では思えるものの、当時のわたしにとっては猫に小判状態でさっぱり良さが分からなかった。その教会に行く以前に、自分で聖書を読んでいた時も、詩篇になると途端にテンションが下がった。で、よく分からないながらも一応、文字に目を通すことだけはして、読んだことにしていた。だから、一向にわたしと詩篇との距離が縮まらなかった。むしろ、どんどん敬遠していって、時間が経てば経つほど疎遠になっていくようなそんな感覚さえあったくらいだった。
 それから10年以上の月日が流れて、今なのである。やはり、わたしにとって詩篇という書物は何だか取っつきにくくて、この意識を克服したとは言えない。でも、昨日と今日改めて読んでみて、まだ苦手ではあるけれど、それでも何か詩篇から魂の叫びのようなものを感じて、案外面白い(と言うと語弊があるけれど)じゃないかって思えたんだ。これはわたしにとって大きな成長だと自分でも思う。今まで面白いと思えなかったものが、自分が成長してきたことによって、その魅力が少しであっても分かるようになる。歯が立たなかったものが少しは立つようになっている。今までのわたしが学んできたこと、体験、経験してきたことが積み上げられて、確実にステップアップしている。わたしはこのことがとても嬉しかった。
 詩篇のテキストは十数年前から何も変わっていない。同じテキストなのだ(同じ新共同訳聖書)。変わったのはわたしだ。わたしが変わったのだ。
 ところで、話が詩篇の中身のことに移るけれど、読んでいて気付いたことがある。それはイエスさまが実に革新的なお方だったんだなということだ。詩篇を書いた人というのは、しきりに正しい人間とそうでない人間を対比させる。そして、自分は不信仰な連中とは違って清いんだと事あるごとに主張する。何だかそれが読んでいてとても気になってきた。さらに敵を滅ぼすようにとしきりに神様にお願いをするんだ。いわば、ガチガチの信仰が詩篇では表現されている。
 それに対して我らがイエスさまは真っ向から反対の意見を掲げる。イエスさまは徴税人や犯罪者などの世間で言うところの悪い人と積極的に関わりを持たれた。一緒に食事までされた。詩篇ではそうした人とは共に座ったりしないなどと書かれているのに対して、イエスさまはそれをぶち壊されたんだ。さらには、敵を滅ぼすどころか、「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい」とまで言われた。他にも、イエスさまは「裁くな」とも言われた。しかし、それでもイエスさまが御自身でお裁きになられたのは、自分を正しい者とみなして自惚れている連中だった。そうした人たちに対してだけはイエスさまは本当に厳しかった。
 詩篇を1/3ほどあらためて読んでみて、いかにイエスさまが革新的で、いわばラディカルかということがわたしの中ではっきりとしてきた。イエスさまは生ぬるくない。愛のお方でありながらも、既存の権力や権威に対して正面きって闘われた。
 とまぁ、ここまで書いてきたけれど、詩篇を読むことを続けていきたいな。詩篇の信仰はかなりガチガチだけれど、それを壊すも乗り越えるもその型があってこそだからね。いわば星は修行中みたいなものだから、まずは詩篇のベーシックな信仰を知るところからやっていった方がいいと思うんだ。修道院のことを詳しくは知らないけれど、どうやら詩篇漬けと言ってもいいくらい読むらしいから、詩篇は大切なんだろうなって思う。信仰の基本であり型である詩篇。この書物を繰り返し読むことによって、きっと星の信仰も成長していくことだろうと思う。そういうわけで、星と詩篇の関係はまた新たになっていきそうだ。
 みなさんも聖書をお持ちでしたら、詩篇をぜひ読んでみてくださいな。きっと詩篇を流れる神様への信仰に心打たれることだろうと思う。先人たちも詩篇から多くのインスピレーションを受けてきた。わたしもそれに僭越ながら連なるものとして、その恵みに与ることができたら、と願うのである。神様が詩篇を通してわたしをどのように変えてくださるのか、今から楽しみだ。

三流エッセイストの星さん

「はぁ~」とため息が出てしまう。今日、何気なく読んだマルティン・ルターの本に、ルターが修道院時代に聖書の詩篇を一日に50編読んでいたという話があって、すぐ影響される星は「それなら詩篇読んでみようか」と思ったのだ。そこまではいい。問題はそこからだ。詩篇を読んでいたら自分の文筆活動が実につまらないものに思えてきたのだ。はっきり言って、わたしが書いているものって低級なおしゃべりに過ぎないでしょ。うーん、詩篇と比べること自体無謀だという気もしないことはないけれど、それにしても自分が今までネットで発表してきた作品がひどいものに思えてきてしまったのだ。もちろん、すべてが無駄なおしゃべりというわけではなくて、中身が詰まったものもある。ズバリと真理を射抜いているものもあったようにも思うのだ。しかし、聖書の詩篇と比べると、星の文筆くだらないなぁって思わされてしまう。まさに打ちのめされたような、そんな感じなのだ。
 すごいものにふれると圧倒される。ゴゴゴゴゴ~、って地響きがするようなそんな荘厳ささえも聖書の詩篇からは感じられるのだ。
 別に聖書の詩篇と自分の文章を比較して落ち込む必要はないのかもしれない。日本の一流の作家たちだって詩篇とは全然勝負にならないんだから、これって当たり前のことだよね。分かってはいる。分かってはいるのだ。しかし、聖書の詩篇がすごすぎて、格が違いすぎて、自分の文章がまるで塵とか埃(ほこり)のように思えてきてしまうのだ。
 でも、わたしの文筆にはまたそれとして価値はあるんじゃないか、と自分自身を慰めたくもなってくる。なぜなら、いつも真剣勝負では人間もたないからだ。詩篇ってほとんど全部真剣勝負だと思う。神様と真正面から向き合って、助けてくださいとか、力づけてくださいとか、敵を滅ぼしてくださいとか対話をしているんだ。祈りの書とも呼ばれるだけあって、まさに神様とサシで話をしているみたいな。全編そんな調子で進んでいくんだ。だから、読んでいて、すごくこちら側のエネルギーが吸い取られていくのを感じる。少なくとも気分転換とか暇つぶしに読むものではない。暇つぶしに詩篇を読んだ、とか言う人って今まで聞いたことないよ。だから、詩篇を読むと疲れるんだ。
 一方、星の文章はくだけていて読みやすいと思う。読者のエネルギーを奪うどころか、逆に元気を与えているんじゃないかって思うんだ(って誰も言ってくれないから自分で言っちゃうけど)。詩篇と比べたら全然、信仰的な深みとか敬虔さとかはないけれど、それでもわたしの文章にはまたそれとは趣きが異なる味がない? というか、わたしの文章はいわばスナック菓子みたいなもので、詩篇のような高級フレンチにはかなわない。けれど、人は高級フレンチよりも庶民的なスナック菓子の方が食べたい時もあるんだ。だから、星の文筆が必ずしも意義がないかって言えばそんなことはないと思うんだ。っていうか、そう思わなければやっていられないよ。それに一流のものしか存在することが許されないとしたら、アマチュア芸術なんて意味がないことになる。でもね、三流には三流の意義があるんだよ。というか、どんなに周りから下手くそだと言われても、けなされてもその人がそれをやっていることに意味があるんだよ。まぁ、ドラえもんのしずかちゃんのヴァイオリンとかジャイアンの歌なんかのように明らかに騒音レベルの迷惑なものもあるけれど、人に迷惑がかからないならどんな活動したっていいはずだ。
 だから、自他共に認める三流アマチュアエッセイストの星の文章にも下手くそなりにも、まぁ、意味があるんじゃないかって思うんだ。聖書の詩篇と比べたらわたしの文章はクズみたいなものだろう。でも、クズにだって誰か意味を見出してくれる心の広い人はいるはずなんだ。星の文章を「荒削りだけど、まぁいいんじゃないの」と言ってくれる人も少数ながらいるとは思うんだ。価値っていうのは、誰かによって付けられるものでしょ? どんなに多くの人が「これはクズだね。何の価値もないよ」と酷評したとしても、誰か一人でも「何て素晴らしいんだ」と感動したらその心動かされた人にとっては、少なくともその人にとっては価値があるんだ。反対にどれだけ多くの人たちが賞賛したとしても、ある人から見たら全く価値を感じられない、ということも十分ありうる。
 じゃあ、多くの人から価値があるとみなされてきたり、今も支持を得ているものに普遍的な価値があるかどうかと言えば、それはちょっと怪しいと思うな。ま、世間一般から言うところの価値あるものっていうのは、そういうものなんだろうけど必ずしもそればっかりじゃないよね。物事に絶対的な価値をつけられるのは神様だけなんじゃないかなとわたしは思うから、人間がつけた価値というのはどうしても相対的にならざるを得なくなるんじゃないかと思うんだ。
 とここまでまたしても三流の価値論を展開してきた三流の星だけれど、三流には三流の意義がある。アマチュアにはアマチュアとしての意義がある。そのことにこの文章を書きながら気付くことができた。一流でなければ存在意義がないなんていう考え方はやっぱりどこか寂しい。しずかちゃんのヴァイオリンは公害と化しているから難しいところだけれど、彼女の下手くそなヴァイオリンにだって存在意義はあるのだ。だから、星のうまいとは言えない文章にもきっと意義があるし、価値もある。
 そういうわけで、これからも三流エッセイスト星の文筆活動からは目が離せない? 三流の文章をこれからも続々と書いていきますよ。

あなたに合った水やりをしてほしい

 植物に水やりをする。いろいろな植物があって、それぞれ種類ごとに水やりの仕方が違う。水をあげる頻度、回数、それから水の量。みんな違っていて、それを守らないで一様にやってしまうと、やっぱりうまくいかない。
 こんな当たり前のことは言われるまでもなく分かっていることだ。でも、それが人間の場合、その中でも自分にあてはめて考えてみるとどうなのか、といったことに無関心で来てしまったように思う。
 このことに気付かせてくれたのがアーユルヴェーダの本だった。アカリ・リッピー『アーユルヴェーダが教えるせかいいち心地よいこころとからだの磨き方』を読んでこのことを知り、まさに目からウロコだった。
 このアーユルヴェーダの本では、みんな違うんだから、画一的にその人の体質などの個性を無視して、流行りの健康法、食事法、サプリメント、美容法などを自分に無理にあてはめようとしてもうまくいかないことの方が多いだろう、といったことを教えてくれている。そうだ、そうなのだ。その通りなのだ。で、アーユルヴェーダでは一人ひとり違う人間にどうすればいいと教えているかというと、人間を大まかにいくつかのタイプに分けて、そのタイプにあてはまる食事法、生活法、美容法をやっていくように勧めるのである。そして、さらに、そのタイプに沿った生活をしながらも、自分に合わない食べ物だったり、生活習慣を一つずつやめて引き算をしていく。その結果、本当に自分にとって心地良いものだけが残る。その残ったものこそが、その人にとって最適な水やりなのだから、それを大切に続けていく。しかし、人間というものは常に変化し続けている生き物だとアーユルヴェーダでは考えるから、自分の心と体からの声を常に聴くことができるよう、感覚を研ぎ澄ましていき、変化に対してきめ細やかに対応していく。
 このことは毎日の生活すべてに言えることだと思う。わたしたちは日々、何かをして生きているわけだけれど、その一つひとつがわたしにとって最適なものであるためには、やっぱり試行錯誤して心地良いものを見つけていかなければならないのだ。
 このアーユルヴェーダの教えを知って、わたしは勉強法も勉強時間も自分に合ったものでいいんだなって思えた。今までは、誰か目標になりそうなすごい人の真似をして、その人と同じことをすればいい、と何の根拠もなく思っていたけれど、それもやめた。もちろん、参考にすることは一応する。でも、自分で試してみてそれでうまくいかなかったら、やっぱりそれは合っていないのだ。
 誰かが毎日6時間勉強した方がいい、と勉強法を掲げても、みんながみんな6時間できるわけではない。それでは大変すぎて無理だという人もいれば、いやいや8時間くらいやらないと物足りないよ、という人もいることだろう。
 また誰かが、本の内容を頭に入れるには7回速読するのがいいよ、と提案したとしても、それがみんながみんなに最適とは限らないのだ。ゆっくり2回読めば頭に入る人もいれば、文章を書き写さないと頭に入らない人、あるいはとにかく書き殴って書きまくらなければうまく記憶できない人などと多様だと思う。
 だから、勉強法にしても10人いれば10通りの勉強法があると思うし、それでいいと思う。それを何が何でもこの方法でやらなければ駄目なんだとガチガチに考えて、自分には明らかに合っていないのに、その方法に固執するのは賢明だとは言えない。
 何かすごく気が楽になってきたわたしである。みんな違うんだから一つのやり方にこだわらなくていいんだ。そのやり方を試してみて合わなかったら別のものにしてもいいんだ。すごく気持ちが解放されません?
 うまくいっている人の話というものにも普遍性がある場合もあるけれど、それでもそれは一人もしくは何人かの成功体験でしかない。それがこの独自の個性を持ったわたしに合うのかどうか。それは実際に試してみなければ分からないのだ。
 納豆とか魚が体にいいから、と言っても、それが多くの人にとってはそうであっても、このわたしにも合っていていいものなのかどうか、というのは実際にわたしがそれらを食べて実験してみなければ分からない。仮に統計とかで健康にいいことが証明されたとしても、やっぱりそれでもわたしには合わないということはあると思うのだ(ま、多くの人にとって良かったものは大抵わたしにとってもいいことは多いけれど)。
 だから、自分で試してみて、その時の自らの体の反応とか調子とか感覚を観察する。そうして、自分にとっての合わないものを見つけていって、それらをやめていく。アーユルヴェーダって「生命の科学」っていう意味でもあるらしいんだけど、ものすごく合理的だなぁって思う。そうだよな、自分に合わないものをやめていけば体調だってきっと良くなるわな。自分に合わないものをやめて、合うものに絞っていく。うむ、実に合理的。
 わたしはこの考え方に従って、実験をしていった結果、食べ物や飲み物で工夫するようになったことがある。それはコーヒーの飲み方で、1日あたり450mlを超えないようにしているんだ。それを超えると体調が悪くなると自分で実験してみて分かったからだ。そして、飲むタイミングも朝と昼だけにしていて、出掛ける(歩く)直前には飲まないように気をつけている。もちろん、夕食後などに飲もうものなら、目が冴えてしまって確実に夜眠れなくなる。でも、飲む量とタイミングをしっかり守れば、程良い刺激となって活力がわいてきて、頭の回転数も上がる。
 それと以前の記事にも書いたけれど、空腹時に葛根湯と白い食パンを食べても不調になることが分かったから、それと同じ状況を再現しないようにも心がけているんだ。
 ここでは2つあげたけれど、その他にもこれをやると調子が悪くなるっていう大まかなリストがあって、それを参考にしながら不調にならないようにしているんだ。体調が上がったり、気分が良くなることを積極的にやるのもいいけれど、それ以上にこれをやると調子が悪くなるなっていうのをやめていく方が大切だとわたしは思う。
 わたしも自分に合うものと合わないものを実験してさらに探していきますので、あなたもぜひ自分にとってのベストチョイスを模索していってくださいね。
 当たり前のことながら、見過ごしがちなことに気付かせてくれたアカリ・リッピーさんに感謝しつつ、今回の記事を終わりにしたいと思う。
 あなたに合ったベストな水やりをぜひ見つけてください。以上。

ぐだぐだ不調日記第5弾「葛根湯と食パンにやられた男」

 どうもー。星です。毎度恒例のぐだぐだ不調日記のお時間がやってまいりました。今日も、レッツぐだぐだ。というわけで不調と共にお送りしたいと思います。
 今日は何と、午前中2時間ほどパソコンをやっておりました。パチパチパチパチ~(って何でやねん)。
 さて、トーンを少し抑えるとして、と。その素地があったからかどうかは分からないけれど、それも相互に複雑に影響して今の不調になったのだと思う。で、今回の不調のトリガー(引き金)は葛根湯と食パン。
 雨降りの中、スーパーへ食料の買い出しに行ってきた星さんはお腹をすかせて帰ってきたんだ。で、食べましたのは食パン。一斤(かな?)97円の食パンを2つ買ってきた星さんはそれを2枚ほど食べました。6枚切りのやつを2枚ね。そして、さらにやる気を出そうと葛根湯を飲んだ。
 それからなのです。調子が悪くなってしまったのは。何かあの気分がモアーっと悪くなる感じに襲われたのだ。全身が不快なヴェールに包まれるみたいな、あの感じ。お分かりいただけます?、って分からないだろうと思うけど。逆に「そうだね、あれでしょ」とか言われると何気に当惑するけどね。
 おそらくだけど、食パンをお腹がすいている時にドカ食いしたもんだから、血糖値が急上昇しちゃったんだと思う。そんでもって、ただでさえそんな状態なのに、それに葛根湯を追加すれば血圧上がるし、気分だって悪くなるよ。葛根湯ってある意味、ハイにする薬だよね。食パン食べて上がった血圧を、葛根湯でさらにドーンみたいなところだろうと思うんだ。まぁ、全粒粉の食パンだったら問題なかったと思うんだ。でも、そんなのわたしがいつも行っているスーパーにはないし、あったとしても高級品だよね。じゃあ、玄米にしといてもよかったかもね、って反省してる。炊飯器の中には玄米粥があったんだ。それを食べればよかった~。くそ~。チョイスをしくじったぜ。でも、これからに生かすんだ。失敗は次に生かすためにある。星さん、偉いぞ。失敗を次にぜひとも生かしてくれ。人類の未来のためにもこの経験を決して無駄にしてはならないんだ。星の失敗によって人類は新しいステージに突入しようとしている。これは画期的なことであって、未来はどこまでも限りなく明るい、な~んて真面目くさったご冗談はこれくらいにして、次に進もー。
 って今日のネタってこれだけだよね。

 星が買い物行ってね。
 (あいよー。)
 お腹すかせててねえ。
 (あいよー。)
 食パン2枚を食べて葛根湯を飲んだんだとさ。
 (あいよー。)
 それで調子が悪くなったんだとさ。
 (あいあいさー。)

 で話が終わってるじゃないすか。うーん、ここからどんな話を持ってきたらいいのか。悩むところだ。もう話はだいたい終わってるじゃん。
 でも、付け加えるなら、今回のぐだぐだ不調日記で画期的なのは、今までにない不調のパターンを展開しているところではないだろうか。葛根湯と食パンで不調になるなんて、わたしにとっては前代未聞のいわば初体験だし、新パターンの到来じゃないすか。これは画期的、と思いきや、今回だって実は同じようなものなのだ、とふと気付かされる。やっぱり、パソコンなのだ。わたしが不調になる時のほぼすべてにおいて、パソコンが絡んでいる。逆に言えば、わたしはパソコンをやらなければ基本、不調にはならないようなのだ。(あ、それとパソコンやらなくてもテレビとかの視聴もね)だ・か・ら、同じことのく・り・か・え・し。成長してねー。全然成長してねー。結局いつも同じパターンで同じように同じ不調に陥る。自分で掘った穴にいつも落ちているようなお間抜けさんだね。パソコンという穴を掘りさえしなければ、だいたい落ちることはないのに。これじゃあ、進歩がないよ。新パターンの到来かと思いきや、実は同じことを繰り返しているにすぎなかったことが発覚して我ながら自分に呆れてしまうよ。でもね、これは新パターンなんだよ、と一方で反論したくもなるんだ。だって食パンと葛根湯が引き金になっているんだからね。って言い訳もほどほどにしろって思うよね。「どちらにしろ、パソコンやってたんだから、そこは素直に自分の非を認めなさいよ、まったくもー。」叱られちゃった。美人に叱られちゃったよ。ってこの調子だと星は全然反省しているようには思えないよね。
 でもね、星はね、これでも反省しているんだ。やっぱりパソコンは長時間やっちゃだめなんだなって身につまされてるんだ。いかんなぁってそれはそれは反省しているんだよ。日光猿軍団のお猿さんが反省するような様子で反省しているんだ。これはもう反省してるでしょ? えっ? してない? そんなわけないよ。だってお猿さんたちは真剣に反省しているんだからね。(やっぱりお猿さんたちは反省していなくてバナナのことでも考えているのかなぁ)。反省(心の声:「バナナ食べたいなぁ。早く終わらないかなぁ」)。
 というわけで決めました。パソコンはブログの更新以外やらないようにして、やっても15分にする、と。星さん、偉いでしょう? 誰も言ってくれないから自分で言っちゃいますよ。「よしよし、よしよし、いい子、いい子。」
 ぼうや~♪よい子だ、ねんねしな~♪あいよ~♪(?)
 なぜか子守歌に突入して眠くなってきたところで本日はお開き。また来週。(って笑点?)

PAGE TOP