心の平和を求めています

 今朝、4時に起きた。そして、それからシャワーを浴びて5時半。ヨガをやろう。そう思ってテレビをつけたら、テレビに心を持って行かれてそのままヨガもやらずに1時間半もダラダラと見てしまった。
 気持ちが下がる。テンションが下がる。やる気が下がる。何というか「さぁやっていくぞ~!!」みたいな元気が内側から起こってこない。ただあるのは倦怠感と無気力感へとつながっていくような気分だけ。調子が悪い、とまでは行かない。けれど、何か元気が出ない。で、それから気を取り直してヨガをやったものの、どこか集中することができないまま終了。へこんだ停滞している気持ちがどうも元には戻らない。
 テレビを1時間半も見るとわたしはどうなるかと言えば、何かにつけ物事に対して批判的になる。一言で言うなら、ネガティブになるのだ。思考がどんよりと厚い雲に覆われていて頭も冴えない。今、この文章を書いているわけだけれど、いつもの冴えはどこへやらといった感じで、冴えないんだなぁ。
 今、気持ちを盛り返そうとブルーハーツを聴いている。けれど、これは少し元気すぎるようで今一つ合わない。でも、だんだん元気になってきたぞ。
 みんな平安を求めている。幸福、幸せと言い換えてもいいかもしれない。そして、それが手には入らなくてあがいてあがいてあがくんだ。で、わたしはと言えば、ようやく平安がどういうものか見えてきたような気がする。自分がぽかぽかとあたたかい心でいること。いられること。それが平安なんだろうと思う。そこにクリスチャンなら神様と共にとくるのだろう。
 最近わたしはアティテューディナル・ヒーリングの本を読むようになった。精神科医の水島広子さんが日本に紹介したもので、わたしはその考え方にふれてみて、ものすごく癒しを得ることができたんだ。一言で言えば、このヒーリングはやさしい。こうすべきとか、こうしなさいとか言うことはほとんどしないで、「やってみたらどうですか」みたいなスタンスだからだ。これは心の平和を目的としているもので、どうすれば自分が心穏やかに平和でいることができるのか、という方法を教えてくれるのだ。ここで詳細を述べてもいいのだけれど、それは少しばかり荷が重いのでまたの機会にするとして、そういったものがあるということだけ知っていてもらえたらと思う。
 アティテューディナル・ヒーリングを生活に取り入れ始めて数週間といったわたし。これを実践してみて変わったことがあるのでご報告したい。
 何かまわりの人たちがわたしに優しくしてくれるようになったのだ。教会へ行った時にこれを実践しているのだけれど、次から次へと小さな奇跡が起こるのだ。まわりのわたしへの対応がとてもソフトになり、優しくなった。それは母が言うには、わたしがおだやかになったからではないか、とのこと。まわりの人たちを変えようなんて1ミリも思わないのがアティテューディナル・ヒーリングの流儀だから、わたし自身が変わったっていうことなのかな。
 わたしは今、心の平和、つまり平安を求めている。そして、それはわたしに与えられつつある。だから、自分でそれをテレビを長時間見たり、パソコンやポルノなどで台無しにするのはもったいないのだ。そうではなくて、心の平和を目指したい。そして、毎日をすがすがしく生きていけたらと思う。怖れを手放して愛に生きる。そんな風にやっていけたらいいな。そのためのアティテューディナル・ヒーリング。しなやかに生きていきたい。

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スパイスのある生活

「カレーは少しお休みにしてくれない?」それもそのはずで、星家では夏のカレー祭り真っ最中なのだ。カレー、カレー、カレー。ここ一週間くらいは連日ほぼ毎食のようにカレーが続いていた。そして、冒頭の母の言葉。
 こうしたスパイスのある生活が始まったのはかれこれ3年前のこと。ある時、わたしと母は駅周辺のインドカレーの専門店に入って食事をした。そのカレーは本場の味が再現されていて、まさに本格的。調理をしている人も外国の方で、母国はカレーの国なのである。そういうわけでそのカレーがすごくおいしくて、3、4回はその店へ行ったと思う。
 で、ある時、わたしはひらめいたんだ。こうして毎回カレーを食べに来るのではなくて、自分で作ればいいんじゃないか、って。そうすれば、店で食べるよりも安くできるだろうし、量だってたくさん食べたければ多く作ればいい。
 その日からわたしのスパイス生活は少しずつ始まっていった。まず、アマゾンでスパイスカレーの本を探して早速買ってみた。その頃は印度カリー子さんが活躍し始めたころで、世間はちょっとしたスパイスカレーブームとなっていた。長い物に巻かれるのが案外好きなわたしは、そんなにカリー子さんのカレー本が人気があるのなら、と買ってみたのだった。
 そうして、ネットでスパイスを買い、その他必要なものも買っていざ挑戦。最初は最初だっただけに作るのに1時間以上はかかったけれど、何とか無事完成。
 食べてみる。カリー子さんには失礼だけれど、店よりもおいしく作れるなんて全く思っていなかった。案外、シャバシャバした感じの一応のカレーしかできないんじゃないか。そんなことを考えていたものだった。が、予想をはるかに上回る出来映え、お味にわたしと母はうなったのだった。「これって店のやつよりもうまいじゃん!!」って。こんなにうまいものが作れるのに何でわたしの人生においてスパイスカレーを作って来なかったのだろう、とさえ思ってしまうような自作カレーの衝撃的なうまさ。店のカレーとの決定的な違いは、塩分と油が少な目で体に優しくて軽いということ。店のカレーは終わり頃、少し胃がもたれていたけれど、このカレーは全然そういうことがない。また、塩がふんだんに使われている店のやつと違い、塩分過剰にならず実に健康的(とは言うものの、塩はレシピの量の半分くらいにしてはいた)。店以上においしいカレーが自宅で簡単に作れる。スパイスカレーブームが起きているのに納得したわたしたち親子なのだった。
 それから3年の月日が流れて今に至るわけだけれど、それから自分なりにスパイスカレーの本を他にも買って、自分に合うものを探した。まだわたしのカレー道はおぼつかない足取りではあるものの、着実に歩んでいる。
 ここ1年くらいはエリックサウスの稲田さんのカレーのレシピ本にお世話になっている。彼のカレーの特徴は実に若者向けの味付けだということだろうと思う。何というか、カリー子さんのカレーがほんわか優しいのに対して、稲田さんのカレーはバシっと刺激がある、いわば男性的なカレーなのだ。自称若者(もうわたしも40近いけど)のわたしはこれにハマってしまったのだ。(もちろん、塩と油はレシピの規定量の半分にしてはいる。)さらに、カリー子さんのよりも簡単に短時間で作れるというのもいい。カリー子さんのカレーはしょうがとにんにくをみじん切りにする。でも、稲田さんの方は出来合いのしょうがとにんにくのすりおろしで作ればいいのだ。それだけでも作る手間が少なくなって楽になる。それから、カリー子さんの方が計量スプーンをおもに使って作るのに対して、稲田さんのははかりを使ってg数で調理する。カリー子さんのもまた魅力はあるのだけれど、稲田さんの方が合理的でわたしにはその方が作りやすく彼の本を愛用させてもらっている。
 ここまでスパイスカレーについて書いてきた。しかし、わたしはカレー以外にもスパイスを活用している。ここから話はアーユルヴェーダへとつながっていく。インドの伝統医学であるアーユルヴェーダではスパイスを用いることを推奨しているのです。で、どういう使い方をしているかと言うと、体調に合わせてスパイスをお湯に入れて飲んでいる。気分がソワソワして落ち着かない時はコレ。少し落ち込み気味の時はコレ。やる気を出したい時はコレ、とその時の状況に合わせてスパイスを飲むようにしているのだ。その中でも万能選手のコリアンダーにはお世話になっていて、日常的にコリアンダーはお湯に入れて飲んでいる(あ、シードじゃなくてパウダーのやつね)。コリアンダーをお湯に入れて飲むと、実に気持ちが落ち着いて整えられるのです(1回につき小さじ1杯くらいのコリアンダー)。特にコーヒーを飲んで少しソワソワして落ち着かないなぁっていう時にコリアンダーを飲むとすごくいい。これが気持ちを落ち着かせたい時に飲むやつ。反対に気持ちが少し停滞していて落ち込み気味でやる気を出したい時には、すりおろし生姜とターメリックを小さじ1ずつお湯に入れたものを飲む。そうすると軽い気持ちの沈みであれば大抵回復する。あとはこれを基本として、甘草やカルダモンやシナモンなどを組み合わせる感じかな。もちろん、こうしたスパイスをお湯に入れたティーが精神安定剤などの医薬品に相当する効果があるかと言えば、そこまでは効かないだろう。でも、ほんのりと体を整えてちょっとした不調を治すという意味ではこれはとても効果のあるセルフケアだと思う。
 スパイスカレーから始まって、アーユルヴェーダ、ヨガ、瞑想とインド的なものへ広がっているわたしのスパイス生活。こうした生活を送るようになって、体が整えられてきたんじゃないかって自分でも思う。インドって奥が深いなと改めて感じさせられる。
 さ~ぁて、今日は何カレーにしよっかな~。休肝日ならぬ休カレー日を一日つくったところで、またわたしのスパイス生活(特にカレー)は続いていく。もう今となってはスパイスが生活に欠かせなくなった。スパイスと共に健康な生活を送っていきたい。



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大木のようになりたい

 わたしを植物にたとえるなら何になるかな。そうだな、こんなこと言うと「星さんたら、また自己肯定感が低いんだから~」と言われてしまいそうだけれど、たんぽぽの綿毛ではないかと思う。綿毛ってふわふわしていますよね。ふわふわ~、ふわふわ~って風の吹くままにあっちらこっちら自分の意志などほとんど持たずに運ばれていく。まさにあれなのです。
 誰かが何かもっともらしいことを言うと、「そうだそうだ」と同意して、また別の誰かが違うことを言うとまたそれも本当らしく思えてきて「こっちの方が正しいのかも」とブレ始めて、で、またそのまた別の人がまた何か言うと「そういう視点もありだな」とあっちにコロコロ、こっちにコロコロと二転三転する。まるでその様子はお空を舞っているたんぽぽの綿毛のようで、とても頼りない。
 これは何も意見などに限られなくて、誰かが自分のことをほめてくれたり、あるいはけなした場合にもあてはまる。誰かがほめてくれると本当に嬉しくなって有頂天になって、今は最高の気分だと思う。けれど、ちょっとでも批判されたりしようものなら、ズドーンと底にたたき落とされてしまう。あんなに人からほめられて気分は絶好調でさえあったのが、一転、最悪の気分へと様変わりする。
 だから、わたしの気分はいつも人任せだった。風が吹くままと言っていい。わたしの気分を良くするためには他の人からの賞賛なり、おほめの言葉が必要で、自分自身の気分に責任というものをまったく持っていなかった。わたしの気分の主導権は自分にはなくて、自分以外の人たちに握られているのだ。
 でも、この不安定な気分の構造が明るみに出されてきて、このままではまずいんじゃないかと危機感を覚え始めたので、変わりたいと思うようになったのだ。
 人の賞賛などの評価といったものは実に移ろいやすい。一時はあれだけほめてくれた多くの人たちが興味関心が他に移ってしまうと、まったくこちらに見向きもしなくなる。そんな気まぐれな人からの評価にわたしをすべて委ねてしまっていいのか。わたしの大切な精神状態とか気分とか心の状態を任せきってしまっていいのだろうか。今ではそれは良くないと思える。やはり、自分の気分には責任を持つべきだと思うし(あんまりべきって言いたくはないけれど)、人の評価に全面的に依存してしまうと実に不安定になってしまうからだ。
 だから、わたしは大きな木になりたい。大木のようにどっしりと構えて多少のことでは揺らがないようになりたい。もちろん大木だって台風が来れば大きく揺さぶられる。でも、根はしっかりと張っていて、そんな台風ごときではびくともしない。どっしりとしっかりとその場に立ち続けていることができるのだ。
 言い換えるなら、精神的な面においては自分の軸がしっかりとある状態だ。生きていれば自分に批判が向けられることもたまにはあるだろう。でも、その批判は批判として受けた上で、それでも自分の考えはしっかりとあって、変わらないところはどっしりと変わらないでいることができる。そんな風になりたい。要するにブレないようになりたいのだ。自分の軸をしっかりと持ちたいのです。
 そのためにできること。今のわたしにできること。ヨガをやる。学びを続ける。しっかりと毎日を生活する。料理をまめにする。文章を書いて自分の意見をはっきりとさせる。お祈りをする。思い付くだけでもこれくらいある。
 とにかくしっかりと生きること、生きていくこと。自分自身と向き合って、自分の内側を満たしていくこと。
 すぐに大木のようになることはできない。1ミリ、1ミリずつ成長させていく。そして、自分自身を大きく成長させていくんだ。
 今のわたしが人からの評価が気にならないと言ったら嘘になる。でも、その評価は評価として置いておこうかなという気持ちになりつつある。大木は人から評価されても、されなくても変わらずそこにひたすら立ち続ける。そこまでストイックにはできないと思うけれど、その変わらずブレずにいるという姿勢からは多くのことが学べる。
 一本の木はほめられても、けなされても、忘れられても一本の木。ただ、そこにある。何だかすごくかっこいいなぁ。強固な美学が大木にはある。
 いつかは大きな木になって、自分の木陰で安らぎを他の人に与えることができるようになれたらと思う。そんな日がいつ来ることやらと思いつつ、1ミリ、1ミリずつ成長していきたいなぁ。これはわたしの人生の大きな目標だ。大木のようになりたい。

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人の評価がほしいのは自信がないから

 Twitterがあれほど自分には合わないと言いながらも、それからちょくちょくやっていたわたしである。
 ある時、わたしはこんな内容のツイートをした。「パッとしないブログに、パッとしないTwitter……」などと自身の置かれた状況を少し悲観しているかのようなツイートをしたのだ。何も期待していなかった。いわば、一種のグチ吐きとかウサ晴らしと言ってもいい。こんな一方的なツイートに返信が来るだなんて想像すらしていなかった。が、来たのだ。
「パッとするってどういうことですか?」みたいな意味深なリプが来た。たしかに、わたし自身、パッとするとかしないとか言っているけれど、その意味しているところをあまりよく分かってはいなかった。わたしはこのある意味、哲学的というか鋭い返答からその人物に期待した。「何か有意義なものが得られるかもしれないぞ」。そして、わたしは答えた。「お金をたくさん得るとか、人気者になることです」と。そうしたら、彼は次のように返してくれた。Jさんとしておこうか。Jさんはこう切り返す。人気などを自分の中心にしていると安定しない。そういうものではなくて、自分の内側を満たした方がいいんじゃないか。自分はクリスチャンでヨギー(ヨガをやっている人)です。ヨガをして、お祈りして、一日を始めて一日を終えます。
 ふむふむ、わたしと共通点が多いぞ。男性でクリスチャンでヨガをやっている人って滅多にいないんじゃないかな。しかも若そうだ。
 と彼のリプを読んでいたら衝撃的なまさに核心をついた言葉にわたしは目を見開かされた。「人の評価がほしいのは自信がないからです」。ズドーン。わたしのハートのど真ん中をJさんは射抜いたのだ。わたしが、わたしが今、一番必要としていた言葉。それを彼はこともなげにさらっと言うのだ。このJさんのこの言葉、10回くらいは読んだだろうか。と、何だか魂の解放というか、オーバーに聞こえるかもしれないけれど決してオーバーでなくて、わたしの苦しみの氷が一気に氷解したのだ。
 わたしの苦しみ、葛藤の原因。それは自信がないから。自信がないから、小・中学校時代、勉強して成績を上げて人から評価されようとした。いつも真面目に親の期待に背くことはしないで「よい子」でやってきたし、あろうとした。それも人から評価されるため。社会的に成功して売れっこ作家になりたい。それも根本的なところは自分に自信がないから。みんなから「すごい」とか「えらい」とか言われることによって、自分の自信がないことを補おうとしていた。
 あやうく、あやうくだけど、このJさんの一言がなかったらわたしは一生、人からの評価を求めて、ほしがって、全面的に自分の中心にしてそれに依存していたことだろう。でも、気付いた。たしかに人から評価されることはわたしの気分を良くしてくれるけれど、それを中心にしてしまったのでは、いつもゆらゆらと安定することなく揺れ続けるんだな、と。評価が得られれば天にも上る思いで絶好調になり、少しでもけなされれば絶不調になって底をはう。自分の気分を人任せにしていて、気分を良くしたり悪くしたりするリモコンを自分以外の人たちに委ねてしまっている。
 Jさんはわたしに押しつけがましい調子ではなくて控え目にこんなことを書いてくれた。練習(おそらくヨガのことだろうと思う)をしていって少しずつ、少しずつ自分の内側を満たしていったらどうでしょうか、と。今のわたしに必要なこと。それも一番必要なこと。それは社会的な名声とか名誉を手に入れることではなくて、それらに依存しないで生きていけるように自分の内側を少しずつ満たしていっぱいにしていくこと。人の評価に翻弄され続けるのではなくて、どっしりと自分軸を持ってしっかりと立つこと。そのためのヨガなのである。
 ヨガをやる目的って何だと思います? 何のためにヨガってやるものなのか。ズバリ、一言で言うなら、自分の心をベストな状態にして安定させること。いたってシンプルだけど、難しいポーズができるようになるとか、体の柔軟性を極限まで高めるとか、そういうことではないんだ。すべては心の平安のため。心の平和を得るため。この一点に尽きる。(まぁ、この意見に同意できない人もいるかとは思うけど。)
 神様は本当にわたしに最良のものを与えてくださるんだなって今回のことを通して思った。これからJさんとどんなやり取りがあって、どんな関係が発展していくのかわたしには予想できないけれど、神様は出会うべき時に出会うべき人を与えてくださるんだなって思わずにはいられない。死ぬまで、一生涯、人の評価を得ることだけに翻弄されて流され続けていただろうわたしに、「いや、こうする方がいいんじゃないですか」とJさんを通してお導きを与えてくださった神様。恵みだな。本当、恵みだと心の底から思うよ。
 人の評価に一喜一憂されることから卒業できた先にはどんな世界が広がっているのだろうか。さぁ~、ぼちぼち今日も夕方からヨガをやろう。そして、神様にお祈りをしよう。人生の方向性を示してくださった神様、ならびにJさんにオーバーではなくて、感謝、感謝な星なのでした。Jさんとの出会いをきっかけに新しく目の前が開けていくといいなぁと願いつつ。

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礼拝の説教の感想「わたしが、わたしが」

 只今の時刻は午後1時かといったところ。今日は日曜日で教会へ行ってきた。礼拝なのだ。というわけで、礼拝での説教の個人的な感想をまとめてみたいと思う。
 今日の聖書の箇所はルカ12:13-21。なかなかイエスさまは厳しいことを言われているところで、身が引き締まる思いがする。
 牧師はこんなことを説教で語った。この箇所を原典で読むと、「わたしの」とか「わたしが」というのが逐一書かれている、と。この日本語訳の聖書ではそれを書くとくどいから省略されているのだ、と。わたしの倉、わたしの穀物、わたしの財産、といった調子でギリシア語では書かれているらしい。わたしはそれを聞いて、確認しようにもギリシア語はさっぱり分からないので確認しようがないものの、それが本当だとしたら、ここでイエスさまがたとえで語られている愚かな金持ちはひたすら「わたしが」「わたしの」と自分中心な単語を連呼していることになる。自分がどうか、どうするか、どうしていくか。自分しかその金持ちには見えていなくて、彼の視点はとにかく自分だ。
 そこからさらにイエスさまがわたしたちに教えてくださった主の祈りへと話は及んでいく。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ6:11)」であって「わたしに必要な糧を……」ではないと牧師。「わたしたち」であって「わたし」ではないのだ。イエスさまが教えてくださったこの主の祈り。何にも考えずに祈ってきたけれど、イエスさまはみんなに糧が与えられることを祈り求めなさいと言われているのだ。自分が、自分だけが良ければそれでいい、などとはおっしゃられなかったのだ。だから、今日の箇所の愚かな金持ちはイエスさまの主の祈りの精神と真っ向から衝突するのだ。わたししか見えていないこの金持ちと、わたしも含めたみんなに視点を及ばせなさいと教えられたイエスさま。
 このイエスさまの視点。ついわたしは忘れてしまって、わたしが、わたしが、ってなってしまうんだけれど、それではダメだとイエスさまははっきりと言われているのだ。まさに富や資源や土地や食糧などを独り占めしようとする現代社会の申し子たちへの痛烈な批判である。自分さえよければ他人なんてどうだっていい。そんな自己中心的なあり方ではダメなのだ。それは隣人愛とも真っ向から対立するあり方だ。そうではなくて、みんながハッピーな世の中になるよう、視点を自分中心から解放してみんながどうかというところまで広げていく。だから、行動においても、祈りにおいても自分中心を卒業する。自己中心的なあり方から脱却していくのだ。多くの人がそうしていったらもっと世界はハッピーになるだろうな。
 でも、これはわたしの個人的な意見だけれども、人のことを考えるにはまずは自分を満たすことだと思う。自分がカラッカラで荒廃していて、余裕なんてひとかけらもない。そんな状態では誰かに愛を注ぐことなんてできない。だから、わたしはまずは自分を充実させて満たしたい。そして、できることを人々に奉仕していけたらと思っている。
 わたし自身、ヨガをやり元気になってきた。精神疾患からの影響を受けている時間もだいぶ減ってきて安定してきた。あともう少し。あともう少ししたら誰かのために本格的に何かできるかもしれない。今のところは人の話をおだやかにあたたかい心と態度で聞くとか、毎日を楽しく健やかに普通に暮らすとか、おいしい食事を作るとか、それくらいのことしかできていないけれど、一歩ずつ前進しているように思う。わたしにとっても、自分のためだけでなくて他の人のために生きる方向性がしっかりと立った時にこの長い青年期が終わりを迎えるのだろう。
 また、説教中に牧師がこんなことも言った。牧師は、この説教が信徒のある人にとって人生で最後の説教になるかもしれない、という緊張感を持って語っている、と。たしかにその通りで、特に高齢の方にとってはこれが最後の説教になるのかもしれない。でも、牧師はおそらく人間はいつ死ぬか分からないということも含めた上で言っているのだろう。「これが最後の説教かもしれないと思って聞いてほしい」と語ったのだ。わたしは明日も明後日もそれから先もおそらく死ぬことなく生きているだろう。でも、その保証はどこにもない。明日死ぬかもしれないからだ。だから、今日の夕食だって最後の晩餐になるかもしれず、今夜だって最後の夜になるかもしれない。それは分からないものの、そう考えるとこの一瞬がとてもかけがえのないものに思えてくる。
 以上、自分中心からの脱却についての話と、これが最後の説教だと思って聞いてほしい、との2つの話が今日の説教でわたしが一番印象に残ったことだ。これからまた一週間、世に送り出されたわけだが、この2つを心に留めながらさらにていねいに毎日を生活していきたい。神様、ありがとうございます。アーメン。

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