「教会に行きたくなくて」から2時間後に起こった奇跡について

キリスト教エッセイヨガ
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「教会に行きたくなくて」というタイトルの記事を書いてそれから2時間後。わたしは午後のヨガをやった。綿本彰「癒しのヨーガメソッド」というDVDを見ながらヨガをやったのだ。そうしたら奇跡が起きた。何とあれだけ行く気がしなくなっていた教会にまた行こうと思ったのだ。どういう風の吹き回しですか? 2時間前に書いた記事とはまったく逆の展開じゃないですか、と不審に思う人もいることだろう。それくらいの急展開というか、劇的な展開といいますか、ともかく気持ちを持ち直すことができたのだ。
 ヨガをやって教会にまた行こうと思い直す。これ、笑い話というか、不思議な話だよね。そんなことってあるの?、と自分でも信じられない。まさか、まさかのミラクル。奇跡。神様はわたしを見捨てたりはされなかった、っていうことなんだろうなって思う。
 こんな気持ちが山の天気のようにコロコロ変わる星が信用ならないと思われる向きもあることだろう。でも、これがわたしなんです。まさに移り気で、こう思っていたのに、次の瞬間にはまたハッとして思い直す。人生って、人生ってねぇ。これだから分からないし、面白いんだなぁって思うよ。
 綿本さんのヨガのDVDで浄化されたわたくし。ヨガ最強、ヨガすげー、ヨガLOVE。ヨガは教会生活までも続ける心を呼び覚ましちゃいます。いやいや、ここはね、やっぱり神様がわたしに綿本さんのヨガのDVDを通して聖霊を呼び起こしてくださったのよ、ってことにしておかなくちゃダメなんじゃないの? と急にキリスト教っぽいことを言い始める星。聖霊の力は偉大です、本当、偉大です。DVDの中の誘導で「あなたの光が内側から輝き出します」といった言葉があって、その言葉を聞いた瞬間、また教会生活再出発したいって思えたんだ。綿本さんの「癒しのヨーガメソッド」のタイトル通り、癒されて新たに一歩を踏みだそうとする気持ちが与えられた。もうこの際、これが聖霊からなのかどうなのか、ということにはこだわらない。けれど、万物は神様によって造られたのだと信じるのであれば、おそらくこれは聖霊のはたらきなのではないかと考える他はない。聖なる輝き、聖なる輝きがきらめく瞬間がヨガのDVDを通して神様から与えられた。そうとしか考えられない。こだわらないけれど、そうじゃないかとしか思えない。ってこだわってますね。矛盾。
 人間には思い直すということができる。そのことを思い知らされた今回の出来事。と言いつつもまた「やっぱりやめてやる~」とすぐにまた気持ちが変わってしまうかもしれない。それは分からないし、この先どう転がっていくのかは未定だし、まだ決まっていないこと。人生はどうなっていくのか予想ができない。でも、だからこそ面白い。ふとしたきっかけで予期せぬ方向に激しく展開していくことだって十分ありえる。しかし、今回のわたしに起こった出来事はドラマチックでさえあった。
 何も教会生活をやめることもなかったんだな。そう思えたのは教会の信仰の仲間たちの存在が大きい。たしかに牧師の説教がもっとこうあってくれたらという思いはもちろんある。でも、だからと言って、じゃあ、ほいさとばかりに教会生活をもうやめます、とドロップアウトするのは一部が気に入らないからと言って他のたくさんのいい部分があるのに、それらをも捨てることを意味するから賢い選択とは言えない。100%満足していて、わずかであっても不満のない教会生活なんてそんなものはおそらくないんだ。みんな、何かしら教会生活に不満がありながらも総合的に全体的に考えてむしろ自分にメリットがあると考えているから、信仰生活を続けているはずなのだ。わたしは教会生活を理想のそれがあるものだと勝手に自分の頭の中でこねあげて、それに合致しないからこれはダメだと決め付けてしまっていた。自分の思い描く理想ではないからと言って失望していたら、どこの教会へ行ったとしてもおそらく失望することになるだろう。理想主義、完璧主義、他人や組織へ自分の思うあるべき姿を押し付ける。要は問題点はそこあたりにありそうだ。総合的に、しかも冷静に考えてやっぱりこの教会はダメだと思ったら、総合的に見て検討してもやっぱりダメでメリットがないと思うのだったら、その時は潔くそこでの教会生活をやめればいい。でも、わたしの場合には、メリットは全体的に見ればしっかりとあるんじゃないか。
 まぁ、どうしても耐えられなくなったらいつでもやめることはできる。だから、急ぎなさんな。焦りなさんな、っていうことなのだ。
 それにわたしはまだキリスト教の大枠くらいしか分かっていない。それなのに自分はいっぱしのキリスト教の知識の持ち主だとうぬぼれていた。2000年の歴史があるキリスト教を本当の意味で理解しようとしたらやっぱり同じく2000年はかかるんじゃないか。でも、人が2000年も生きるなんてことは無理な話だから、そこそこのところで妥協してこれでよしにするしかないというところがある。まだわたしはキリスト教を30年すらやっていない。やってきていない。研究はおろか教会生活でさえもまだ6年だ。ビギナーに少し毛が生えたくらいかな、というところでまだまだほとんどビギナーと変わらない。だから、多少教会で気に入らないことがあるとしても、そのためにキリスト教に見切りをつけるのは気が早いと言えるだろう。キリスト教の底力はまだまだこんなもんじゃない。わたしが知らないことはまだ山のようにあるし、それらがわたしに知られるのを待っている。
 ヨガに癒されてやっぱり教会生活を続けようと思ったわたし。頼りない? 移り気? コロコロ変わりすぎ? ともかくこの奇跡に感謝しつつ歩んでいけたらと思う。キリスト教の勉強もまた再開するぞ~。やりながら、走りながら、そしてコロコロ変わりながら、考える星なのでした~。

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