わたしは何か、つまり何者かになりたかった。なって、自分はこれができて、この分野の専門家です、みたいなことを言える人になりたかった。となれば、そのためには人よりも秀でていなければならない。そうでなければ、ただの普通の人であってそこで終わってしまうから。
でも、40年近く人生というものを生きてきて思うのは、別に何者かにならなくてもいいんじゃないの、ということ。もちろん、なれたならなれたでいいのかもしれない。でも、そこが本質ではないように思えてならない。
何かになる。何者かになる。じゃあ、何者かになりました、となっても何かそれはただそれだけのことであって、そのことによって人から尊敬されたり、すごいと思われたりして、「俺ってすごいんだぜ」「わたしってすごいのよ」と思えたとしてもそれだけというか、何というか。
別に「わたしはこれをやっています」「こんなことができます」みたいなことは人に見せびらかさなくてもいいことだし、その人がそのことが楽しくて幸せを感じているのならそれで話は完結してしまう。
とわたしが言うからには、「じゃあ、そう言うあなたは何でブログで自分のことを書いているの?」と鋭い指摘を受けることは必至だ。何でなんだろうね。よくは分からないのだけれど、結局自分をアピールしたり、誇示までいかなくてもすごいと思われたい。そんな下心が混じっていることはおそらく否定できない。また、こんなことができます、みたいなこともやっぱり言いふらしたくなって書いちゃう。
だから、わたし自身が矛盾した言動をとっているのは事実ではある。まぁ、大目に見てください。未熟な人間の発している思想や言葉だと思ってね。
ともかく、もうわたしは東大とか一流企業とか、はたまた作家として成功するとか、そういう成功の道はどうでもよくて、それよりは自分のやりたいように生きていけたらいいなと思っている。
きっと、というかおそらく、本当に目覚めている人は、この社会とか世界の表舞台には出ようとしないのだと思う。それらがすごく馬鹿馬鹿しいまでいかなくても、そういう花形だったりスポットライトを浴びたりすることに価値を何も感じないだろうから。だから、そういう覚者はひっそりと誰にも知られることなく生きているような気がする。その人が言葉を紡いで文章を書けば凄まじいものが出来上がるのかもしれない。いや、不立文字のような感じで一文字も書こうとしなかったりして。そう考えるとわたしのこの文章は無駄なおしゃべりなのだろう。くだらないことをああでもない、こうでもないとピーチクパーチクとワーワー言っているだけなのだから。
そんなわたしのことは置いておくとして、本題に戻ると、何者かにならなくてもいいし、なる必要もないとわたしが思うのは、それが根本的な人生の問題の解決にはつながらないからだ。たしかに何者かになることによって、お金を稼げるようになって安定した収入を得ることができるようになったり、地位や名誉を得ることができたりとメリットはある。でも、お金とか地位や名誉というものが曲者なところは、もっと欲しくなってくるところ。資格にしても何か一つ資格を取れば関連した資格やもっと上級の資格が欲しくなってくるのは当たり前のことで、それと同じようにお金だって人々からの尊敬や賞賛だってもっと欲しくなってくる。つまり、際限がない。で、どこまでも自己実現を果たしていって理想の自分になれたとする。そうなると、また違った問題が生じてくる。その手に入れたお金だったり地位や名誉だったりもろもろのものが素晴らしいものであればあるほど、それを失いたくないと怖れるようになる。失うことが怖くなる。その最たるものが「生老病死」の老病死で、特に自分が死んでいくことを受け入れるのがすごく難しいのは言うまでもない。
それに対して、少しのものでほどほどに満足できている人というのは失うものも少ない。あるいは本当に必要最低限のものしか持たず、生き方もそのような人は怖れも少ないだろうと思う。だから、お金、物、人間関係、肩書き、学歴、社会的地位、権力などといったものは荷物のようなもので、それが良くてたくさんあればあるほど、重く重くなっていく。
最近わたしは、本当のわたしというものが宇宙の意識ではないかと思うようになり始めてきた。そう、完全な宇宙の意識。わたしは今こうして自分の肉体と考えを持っている。それを今まで自分だと思ってきたのだけれど、どうやらそれは違うのではないか、と。わたしはもう既に宇宙の意識なのであって、完全に満たされている。足りないものなどない。わたしが今まで自分だと思ってきた肉体と考えは不完全なものだけれど、それは本当のわたしではない。このわたしの肉体と考えはもしかしたら仮に今こうして現れているだけのように見える幻でしかないのかもしれない。だとしたら、あれがほしい、これがほしいなどと何かを貪欲に手に入れようとしたり、手に入れたものを失うのではないかと怯える必要もないのではないか。もう既に平和であり、平安であり、満たされている。何者かになろうとあくせくしたりする必要なんてそもそもない。
こういうことを書くと、「気は確かですか?」とか「頭の方は大丈夫ですか?」と心配されたり、攻撃的な人からは「お前おかしいよ。イカれてるよ」と冷笑されることだろう。でも、世界中にたくさんある問題がこの考え方を用いればきっといい方向へと向かうような気がしてならない。ポワ~ンとした静かな静寂が訪れるはず。本当のわたしは宇宙の完全な意識であって、すべての人の本当の姿もそれであって、すべては一つというこの思想。人はおろかすべての生き物、つまり万物が宇宙の意識。その意識は人間が神と呼んでいるものなのだとわたしは思う。
わたしが日々ヨガをやり、心身を浄化させ、めぐりめぐってたどり着いたヴェーダーンタという思想。何者かになったところでそれはそれだけのことでしかない、とつくづく思う。何かを手に入れてもそれもそれだけのこと。そうわたしは思う。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/元ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。