街へヨガを習いに行くようになってから、街のことにもだいぶ詳しくなってきた。カフェの飲み物の値段やパン屋さんのパンの相場のようなものも分かってきたし、雰囲気もつかめてきた。
昨日、母が街へと出掛けた。そして、帰ってきてわたしに言ったことがとても印象的だった。それはわたしが作った手料理を食べている時のことだった。
「お金を出して美味しいものを食べるだけがすべてじゃないんだね。手作りの料理はすごく美味しいね」と昨日のことなので正確には言葉を再現できていないのだけれど、母はこんなことを言った。そして、わたしはそれに対して「本当の贅沢というのは自分で作った料理だと思う」と言った。
今、街では夏で暑いからかき氷が人気があるようで、高級なものになると1400円とかするそうだ。1400円か。1400円あったら普通のお店で定食とか食べられるのに。そのことを知って、値段設定がおかしいんじゃないかとさえ思った。まぁ、街ではカフェで飲み物を注文するには安くても500円かそれ以上、700円とか800円もするのが普通な感じだから、いやはやお高い。っていうか、700円とか800円もあったら普通にスーパーでちょっと高めの果物とか買えますけど。
そういうハイクラスな生活というか暮らしを街へ行くと見せつけられているわけですが、何かそれは本質ではないような気がしてならない。
一番の理想は、安くて、希少なものを使うことなく、そんなに作るのに手間もかからず、環境にもやさしい。そして、もちろんそうして作られたお料理がおいしい。それが一番の理想なのではないかと思う。
何も街のカフェで優雅に飲み物とか飲まなくても生きていける。コンビニの108円のペットボトルの麦茶とか、もっと節約するならマイボトルの水筒に入れてきた水でいい。
本当の贅沢とは、いかに金をかけるかではなくて、いかに金をかけないで質の高い物を飲んだり食べたり、または食べ物以外でも手に入れるかということなのだと思う。
わたしは自分で作った料理を母と一緒に食べている時、すごく贅沢だなぁと思う。きっとこれでいいのだろう。うむ、そのはずだ。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。