これで本当にいいのだろうか。このまま進んで行っていいのだろうか。不安とまではいかないけれど、どこか心許ない感じがする。
佐藤優さんと池上彰さんの本を読んでいたら、何だか自分がつまらない何も知らない、できていないダメな人間のように思えてきてしまった。そういうわけで、少し気持ちがどんよりしている。
と言いつつも、もうだめだというところまで落ち込んでいるわけではない。ただ、少し気持ちが重い。それくらいで済んでいる。おそらくヨガをやっていてヨガパワーに守られているからなのだろう。
池上さんと佐藤さんの本を読んでいて思ったこと。それはわたしには何が必要なんだろう。もっと言うなら、何を必要としているのだろう、ということ。どうもこのお二人が繰り出す圧倒的な知識や鋭い洞察の数々はわたしには必要ないんじゃないか。前は、昔はそんな二人に憧れさえしていて、羨望の眼差しで眺めていたけれど、今はそうでもなくなったようなのだ。何か彼らの博識とか鋭さに惹かれなくなったというのが一番言葉としてはしっくり来るだろうか。どうやら、わたしは最近ヨガに多くの時間を費やすようになって、そういった知識は要らないのかもな、と思い始めてきたらしい。二人のことを批判できるほどわたしはできた人間ではないけれど、彼らの知識、いわゆる賢さが不必要な鎧を何重にも着ているかのごとくに見えてしまうのだ。
以前のわたしはそんなことは思わなかった。知識を身につける、それもたくさん手に入れることはいいことであって、とにかく素晴らしいこと。自分を知識で強化して賢くなっていく。成長していく。そんなあり方を何も疑いもせずにただひたすら盲信して賞賛していた。でも、今のわたしは問う。それはわたしにとって本当に必要なものなのだろうか。一生懸命、時間とお金と労力を費やして手に入れるに足るものなのか、と。今のわたしはそれに答える。わたしはあんまりそれに魅力を感じることができないな。
わたしは学校教育を受けてきた普通の人間だけれど、いわば学校教育の頂点って東大だよね。そして、その東大の名誉教授がそのさらに上に君臨している。そんなイメージがあるし、実際そうなのだと思う。でも、思うんだ。そのガチガチに知識で武装することって本当にいいことなんだろうか。本当に必要なことなんだろうか、って。かえって、そういう道を進むことによって見えなくなってしまうことだってあるんじゃないか、っていう気がする。何かを手に入れること。それは同時に何かを失うことでもある。と言い始めると何もできなくなってしまうけれど、どんなものを選択したとしても、それ以外ものは軽んじたり、捨てたりしなければならないのだから、選択というのは取捨選択なのだと思う。人間は有限な存在だから、何かを選べばそれとは別の何かを手放さなければならない。まぁ、これは当たり前のことですな。何も難しいことは言っていない。
わたしが変わってきた、ということなのかな。次から次に手当たり次第に知識を貪欲にものにしていく、というあり方に魅力を感じなくなってきたんだ。それを批判できるほどお前は勉強してないだろ、と言われてしまえばそれまでだけれど、わたしの素直なありのままの心はこう思うんだ。知識偏重主義ではなくて、何というか自分に必要なことだけを軽やかにやっていきたい。必要最低限の物や知識でやっていくとまでは言い切れる自信はないけれど、あまり欲張りすぎず自分なりに、無理をしないでやっていけたらと思っているんだ。自分がやりたい、これは必要だと思ったことはやる。でも、他の人がやっているからとか、他の人がすすめているから、っていうことだけで自分で吟味せずに流されてそれをやったりするっていうのは卒業したい。
欲望を刺激する。というか、欲望を刺激できなければ、欲しいと思ってもらえなれば商品は売れない。だから、みんなあの手、この手を使って欲しいと思ってもらえるように、巧妙に策略をめぐらす。知恵を働かせる。その宣伝やコマーシャルに踊らされてあまり必要ではないものを大量に買い込んでしまう。そして、そのためにたくさんのお金を使う。で、そのお金を手に入れるためにひたすら必死になって働いて稼ぐ。でも、それらは自分にとっては本来、必要ではないもの。煽られて買ってしまっただけのもの。だから熱が冷めればすぐに要らなくなる。
わたしがヨガと出会って学んだことは、欲しいものが出てきた時に、それを見極めるということ。本当に必要なのかと吟味するということ。物にしても、人にしても、欲しいと思う。手に入れたいと思う。でも、そこでワンクッション置く。ワンクッション置いて考える。それは自分にとって必要なのか。それは自分にとって手に入れるだけの価値があるものなのか、と真面目に考える。
ヨガは自分自身とだけ向き合う贅沢な時間で、こうした時を多く持つようになると、次第にまわりに流されなくなってくるらしい。「らしい」と書いたのは人事という意味ではなくて、わたし自身をそれを実感し始めていて、そのようだ、という意味。実際、最近あまり物を買わなくなった。何かを欲しくなると「それって必要なの?」「それは本当に必要なの?」という内なる声が聞こえてくるのだ。こんな感じだからなのか、以前あれだけ欲しかったパートナーも「ま、どうしても欲しいってわけじゃないな」と保留するようになったし、スポーツジムに入ろうかなと思ったりもしたんだけれど「ま、家でぼちぼち筋トレするくらいでいいかな」と割り切れたし、事あるごとに「それって必要なの?」という声が聞こえるようになってからというもの、冷静な判断力が持てるようになってきたようなのだ。ま、それもそうだよね。ヨガをやって自分自身とたくさん向き合っていれば、自分の軸のようなものができてくるし、まわりの人はこう言っているけれど自分はこうだなっていうのがはっきりしてくるからね。
でもね、それでもわたしは煩悩がある普通の人だから欲望はしっかりとありますよ。それが減って整えられてきたっていうだけの話でね。煩悩がなくなるなんていうのは無理な話だけれど、煩悩が減ってきた。それも、煩悩というか欲望が厳選されてきた、って感じかな。
自分に必要ないものは気持ちよく手放して、本当に必要なものを自分の手元に残す。そんな風にやっていきたい。と言いながらも、そこまでまだ徹底されてないけれど。まぁ、この「必要?」の視点が得られたことは大きい。少なくともわたしにとっては大きな進歩であり前進でありましょう。足るを知る。そのためにも必要なものかどうかを見極める。自分が必要だと思えない物や事や人のためにかかりっきりな人生はやっぱり苦しいから、軽やかに、節度を持ってやっていくのが一番だって思う。星さん、いい意味で変わってきた?
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。