本などの著者略歴を読むたびに、以前のわたしはため息をついていた。彼らの華々しいプロフィールとは裏腹に、わたしが実にパッとしない人間であることを思い知らされていたからだ。わたしが読む本の著者たちは、東大、京大、慶応、早稲田、名だたる学校の出身者。わたしはと言えば、高卒、現在放送大学在籍中。うーん、パッとしないんだなぁ。
しかし、最近何かそうした学歴主義から解放されつつある。うらやましいことはいまだにうらましいのだけれど、それでも何かわたしの中に変化があって、それはそれで置いておこうと思えるようになってきたのだ。
そもそも人生は比べるものではない。わたしとAさんを比べて、どっちの方がいい人生を送ったか。送っているか、とか比べるのはそもそもナンセンスだし、意味がないということに気付いたのだ。わたしにはわたしの人生がある。わたしにはわたしの歩みがある。人生のプロセス(過程)があって、歩むスピードがあり、置かれた環境があり、ここまで背負ってきた過去の歴史がある。わたしの人生はわたし独自のものだし、似ている人はいたとしても、わたしとすべて同じという人はいない。わたしの人生は世界に一つだけのものであって、そしてわたし以外にわたしの人生を代わりに生きてくれる人はいない。
だから、「あなたの生き方って価値がないね」とか、「あなたの人生って無意味だったね」と他者が決めつけてジャッジするのは一番やってはいけないことなのだ。もしも、そう判断してしまえるとしたら、それは実に軽薄なものの見方だと思う。その人のことなんてほんの一部しか知らないのに、たったそれだけの断片だけで判断をくだして、総括して悦に浸っているからだ。
誰かが「星ってダメだよな。何にもできてない。まず働いてないし、結婚さえできていないし、マイホームを築けていないし、子どもだっていないし、車の免許さえも持っていない。俺と比べて本当お前はダメな奴だよ。俺を見習ってまずは働いてみろよ」と言ったとして、たしかにその指摘にもその観点から見るなら一理ある。批判者が言うように、わたしは何にもできていないのかもしれない。ダメなのかもしれない。でも、わたしにはわたしなりの歩幅というものがあると思うのだ。進んでいく、歩んでいくペースというものがあると思うのだ。たしかに批判者から見たらわたしにはやる気がないように思えてしまうかもしれないし、まさにダメ人間の典型として映ってしまうのかもしれない。批判者の基準、世間一般の基準に照らし合わせると、全然そのラインにまで到達できていない、ということなのだろう。でも、その基準って絶対的なものなの? 批判者や世間が決めた基準のラインって絶対なの? 70点以上が合格のテストで50点を取ったらそりゃあ不合格だ。合格点に達していないのだから。でも、だからと言って、その人がダメだということにはならないんじゃないかなぁ。ただテストで点が取れなかっただけ。合格できなかっただけ。それなのに、その人自体が何か劣った存在であるかのようで、反対に合格できた人や合格どころか満点を取った人が人間的に優れているかのように思ってしまう。そんなことないのに。
何かで読んだんだけど、日本人って能力と人格を結びつけがちなんだそうだ。能力的に優れている人っていうのは人格的にも尊敬できる、というように錯覚してしまうらしいのだ。でも、冷静に考えてみればそんなことはない。テストで100点とかそれに近い点数を取った人を手放しでそのまま尊敬できるかと言えば、そうは言えなくて優秀だけれど人格が荒んでいる人というのはいる。逆にテストはできないけれど人格的に素晴らしい人もいるんだ。
わたしたちはともすると誰かと自分を比べてしまう。そして、気持ちを激しく落ち込ませてしまう。しかし、どんなに他の人の人生が素晴らしいものであるかのように思えたとしても、それはその人の人生なのであって、わたしの人生ではないのだ。うらやんだり、嫉ましく思ったところで、わたしの人生に何か変化が訪れるわけではない。わたしは思う。そんな自分の気持ちを沈ませるネガティブな感情に支配されているよりも、自分の人生を豊かにすることにつながっていくことを何かやる方が建設的ではないだろうか、と。自分よりも高い場所にいる人をひきずり下ろしたところで自分が向上するわけではない。うらやましい、ねたましいと思ったところで、それだけではこれも同じく自分は上昇していかない。
わたしにはわたしの人生のプロセスがあって、AさんにはAさんのプロセスが、BさんにはBさんのプロセスがあって……、と一人ひとりにはそれぞれの過程があるのだ。だから、それを全然できていない、とか遅いとか、もっと速くとか言わないほうがいい。うさぎのようにピョンピョン、どんどん前へ進んでいく人もいれば、亀やかたつむりのようにゆっくりゆっくりと進んでいく人だっている。そのどちらが優れているとか劣っているとかジャッジする必要はそもそもない。それをしてもいいのは神様だけだとわたしは思う。神様は全部のことをご存知なのだから公平で正確なジャッジがおできになる。だから、これは神様だけの特権(というか万物は神様が造られたのだからね)。神様だけが行使していい権限。
わたしのプロセス。誰かのプロセス。プロセスを大事に、大切にしていけたらと思う。それこそ必要なことではないかなぁ。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。