安息日は休むことにした

キリスト教エッセイ
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 わたしの今までの生活には安息日というものがなかった。一応、日曜日は教会へ行き、礼拝を捧げること自体はしてきた。けれど、その日に積極的に休息していたかと言えば、そうとは言えないのである。
 月曜日から始まって日曜日まで毎日ハードに予定を詰め込んで真面目に生活してきた星である。それがどうしてまた急に安息日に休もうと思ったのか。それにはきっかけがあって理由がある。
 ヘブライ語の勉強仲間のFさんとここ二週間ほどお互い励まし合って勉強してきた。するとちょうど二週間あたりで、Fさんが日曜日は安息日として休みたいと言い出したのだ。Fさんはとても真面目な方でヘブライ語以外にもいくつかの言語を学ばれている。だから、わたし以上にハードな毎日を送られてきたのだろう。Fさんもきつかったようで休みがほしくなったのだ。
 Fさんのこの言葉を受けて、わたしも日曜日休みます、と宣言したのだった。というわけでわたしも日曜日は休もうと思う。
 毎日、毎日しゃかりきになって物事にエネルギッシュに取り組むことは素晴らしいことだ。でも、休むということも同時に大切なことだと思うのである。わたしはロボットではない。決められたプログラム通りに命令通りに忠実にこなすだけの存在ではない。わたしは人間だ。だから、人間だから休むのだ。
 テレビの番組表みたいなスケジュールを立てて、それを忠実に完璧にやる、という人もいることだろう。しかし、わたしにはできないし、それをやりたいとも思えない。わたしは人間だ。生き物だ。だから、機械のようには振る舞えないし、逆にそうしないことによって人間らしさというものが保たれるのだと思う。
 聖書によれば安息日とは、牛などの家畜も休ませる日だ。この日は動物にも仕事をさせてはならないのだ。これはつまり、生き物は休みましょうという神様からの命令ではないだろうか。
 安息日。みんなが休む聖なる日。
 わたしたち日本人は休むということに対して否定的ではないかと思う。頑張って何かをやり続けることには意義があるけれど、休むことは何も活動していないのだからできるだけ休まない方がいいし、もっと言うなら休まないのがベストだ。と考える人も日本人には結構いそうだ。
 けれども、わたしが思うには「休む」ということも立派な仕事だと思うのだ。たしかに何も休まないで生産活動をし続けることができたら最強だけれど、大抵の人はそんな生活を何年も何十年も送っていれば、身体的な病気やあるいは精神的な病気になってしまう。そうしたら、そうなってしまったらそれ以後は何も生産的な活動ができなくなる。そうなると長期的な視点に立てば、休みながらも健康を害することなくコツコツと長い期間やることができる人の方が、短期間休むことなくやって病気になりそれ以後何もできないという人よりも生産的ではないかと思う。これは、うさぎとかめの話にも似ていて、最初飛ばしてあと寝ているうさぎよりも、一歩一歩確実に自分のペースで歩むかめの方が、最終的には優るのである。もちろん、かめのように歩み続けるうさぎが最強だということは言うまでもないことだ。でも、どこかで休息しなければそのうさぎも力尽きてレースの途中でリタイアするだろうことは目に見えている。
 夏目漱石が書いた手紙の中には、馬ではなくて牛になりなさい、という趣旨の言葉がある。わたしたちは俄然、馬になりたがる。うさぎとかめで言うなら、うさぎになりたがる。でも、最終的には、長期的な視点に立つなら、牛、かめが最強なのである。どちらも無理をせず自分のペースで歩んでいて、休み休み行くところが共通している。
 人生は長い。わたしは38歳だから80歳まであと42年もある。最初勢いづいて飛ばしてあとバテたり、病気になったりするよりは、休みながらも着実に一歩一歩進んでいった方が賢いことは言うまでもない。
 神様は安息日には休むようにとわたしたちに大切な生き方を示してくれている。神様はわたしたちが休みなしにしゃかりきでやったら力尽きて幸せになれないことをよく分かっておられていて、その上でわたしたちにそのようなことを命じられたのだと思う。神様はわたしたちのことをわたしたち以上に分かっておられるのだ。
 だから、安息日は休もうと思う。と言いつつも好きな小説くらいは読むかもしれないけれど。(って休んでないじゃん。)

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