メンタルが豆腐のわたしと神様

キリスト教エッセイ
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 最近は比較的、平和な日々を送れているので誰かから批判されることはないのだけれど、それでも自分の意見が批判されるとグサっとくる。これはなぜだろうか、と考えてみると自分の意見が批判されるとわたしは自分という存在、つまりはわたしという人格までも批判されたように思ってしまうからのようなのだ。
 批判されるとまでいかなくても、自分がAだと思うと言ったときに、別の人がいやBだと思うと言っただけでもわたしの豆腐のメンタルは揺らいでつぶれそうになる。別にその人がわたしの意見を真っ向から否定して喰ってかかってくるわけではなくても、である。
 万事がこんな調子なので、わたしは誰かと議論することを好まない。議論は批判ではないよ、と誰かが言ってくれることだろう。もちろん分かっている。しかし、議論して意見を戦わせるだけでもわたしのメンタルは傷付きそれなりにダメージを受けてしまうのだ。
 以前、祖母が余命一ヶ月という宣告を受けたときに京都のおいしいお豆腐を注文したことがあった。それで、そのお豆腐なんだけど、玄関で宅配便のお兄さんがわたしに渡すときに「これはお豆腐なので注意して持ってくださいね」と言ったのだった。わたしのメンタルってこんな感じの取り扱い注意のお豆腐だから、お豆腐だと言って自分はもちろんまわりの人にも注意してもらう必要がある。大事に大事にこわれないようにしてもらう。しかし、そんなんじゃだめだよ。世間というものは荒波の疾風怒濤みたいなものだから、自分を鍛えないと、と言われようものなら、それもまた批判されたようなものだから、その忠告だけでもわたしは傷付く。「今日の星さん、いつにもましてじれったくて少しうざいね」と言われてしまいそうだ。でも、仕方がない。わたしにはこういう面だってあるのだ。
 わたしが厳しい批判をされて追い詰められるとどうなるかと言うと、単刀直入に言うなら死にたくなってしまうのだ。批判くらいで死ぬだなんて大袈裟だなと思われる方もいることだろう。が、大袈裟ではなくて、それどころかこれがありのままのわたしなのだ。自分が批判されると自分の価値が急落してしまう。そうなると、もう生きていても仕方がない、と人生に見切りをつけてしまうのだ。
 これだけデリケートでありながら、その一方で平気で人を批判するのが星である。たちが悪いとは自分でも重々承知している。しかし、これは自分に自信がないことの裏返しなのである。自分に自信がなくて価値がないと思いがちだからこそ、矛盾するように見えるかもしれないが平気で人を批判できるのだ。弱い犬ほどよく吠えるのである。
 だから、反社会的な人や問題行動を起こす人というのは容認できないけれど、彼らは傷付いた心を抱えているのだ。もしも自分の心が満たされていたら人や物を傷つけたり破壊するようなことはしないよ。だから、満たされていないんだ。と言ってわたしは彼らをかばうわけではないしかばうつもりでもないことは明言しておく。
 懲罰か保護か、というのは専門家でも意見が分かれるところで、厳罰化して厳しくすべきだという意見が社会からは時折聞こえてくるものの、そうではなくて保護して更正させることを重視する立場を取る人もいるのだ。
 そんなわけで、人から傷付けられることを極度におそれながらも、人を平気で傷付けてしまう困った星である。豆腐メンタル、どうにかしたいなぁ、と思う。どうしたらいいんだろう。自己肯定感を上げればいいのかな。おそらくそういうことなんだろう。自己肯定感が低いから物事がうまくいかないんだ。
 自己肯定感。それも本物の自己肯定感って一体どんなものなんだろう。わたしは何かができる人が価値ある人だというような教育ならびに家庭環境で育ってきた人間だから、安易に何かができるようになれば自己肯定感も上がるんじゃないかって思ってしまう。でも、どうやらそうではないらしいのだ。本物の自己肯定感とは何かができるとか、何かを持っているとかそういうことではないのだ。そうではなくて、何もできなくても、何もできなくなっても、何も持っていなくても、すべてを失ったとしても自分のことを価値ある存在だと思えるような、そんな自分への肯定感のことじゃないかと思うのだ。だから、これはなかなか、というか本当の強さなのだ。
 もしわたしがある日突然、まばたきしかできなくなったとしよう。手も足も動かせない。もちろん声を出して話すこともできない。そんな状況になったときに果たしてわたしはそれでも自分のことを価値ある存在だと思うことができるのだろうか。それでも揺らがない、自分は素晴らしい存在だという確信。それこそが本物の自己肯定感ではないかと思う。もちろん、これは極端な例だけれど、煎じ詰めるとこういうことじゃないかな。すべてを失って、何もできなくなったときにそれでも「アイムOK」と言えるかどうか。これだと思う。
 極限の状況まで追い詰められると、神様がきっと現れる。そして、その人に寄り添ってくださるんだ。だから、わたしはまだ本当の意味では神様を知らないのかもしれないと思ったりもする。毎週日曜日に教会へ行って神様を礼拝しているわたしだけれど、本当の、それもどんな逆境にもびくともしないそんな神様を見出してはいないんじゃないかって思うんだ。わたしには精神障害があるけれど、まだすべてを失ってはいない。だから、まだ自分の才能や能力などに頼っていることができる。それが全部だめになり、失った時、もしかしたら本当の神様が分かるのかもしれないな。
 不幸のどん底で神を見出すと言いたいところだけれど、どん底すぎると神様どころではなくなるというのがわたしの場合だった。でも、今そのどん底が一段落してあの時にも神様はわたしを背負ってくださっていたんだなということに気付けた。有名な「あしあと」の詩にもあるように神様はわたしを苦難の時に背負ってくださっていたんだ。その時のあしあとが一つしかないのは神様が背負ってくださっていたからなんだ。
 そんな神様がわたしのことを全力で肯定してくださっている。世界をすべて敵に回しても神様だけは全肯定してくださる。お前は素晴らしいんだ、と最大級の讃辞をわたしに与えてくださる。だったら別に誰かから批判されたっていいじゃないか。たかが人間に、それもわたしのことをろくに知りもしない人間に何が分かるって言うんだ。そんな人からの批判なんて受けるだけの価値はほとんどないよ。(もちろん的確な建設的な愛情あふれる批判というものもあるとは思うけど。)スルー、スルー。
 豆腐メンタルのわたしを神様はそれはそれはやさしく包んでくださる。そして、豆腐だからこそ守られることが必要で、だからこそ神様の庇護を必要とするのだ。豆腐も悪くないものだと開き直る星なのであった。豆腐万歳!!(ってそれは言い過ぎ?)

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