わたしに何ができるのだろう?

いろいろエッセイ
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 ここんところ、どうも調子が良くない。イライラするし、怒りはわいてくるしで調子が下がり気味。
 なぜだろう、というのは言うまでもなく、あのわたしの意中の人がてんでわたしを相手にしてくれないから。男として見てくれないばかりか、わたしのことをダメな奴としてあしらってくるから。この完全脈なしの片思い、いつまで続くのだろうか。
 というか、もう終いには怒りさえわいてきて、ギトギトしたネガティブな気持ちが次から次にこんこんとわいてくる。わたしが見向きもされず、わたしの価値がぞんざいに踏みにじられている。なぜなら、彼女に振り向いてもらえないことは、わたしが無価値だということを意味するから。彼女のことが好きなのに、同時に憎いと思ってしまう。好きであればあるほど憎たらしくて仕方がないのだ。
 でも、もうこの身勝手で一方的な恋も終わらせる時がやって来たのかもしれない(って告白もアプローチも何もしていないけれどね)。それは、わたしが「すべき思考」というものに絡め取られていて、状況が分からなくなっていたということに気付けたから。
 わたしが誰かのことを好きになったり嫌いになったりする。誰かに好意を向けたいと思う。誰かと距離を置いたり、拒絶したいと思う。それは誰かから強制されることなのだろうか。たとえば、誰かが「あなたはあの人を愛するべきです。あなたにはそうしなければならない義務があります」と言ったとしたら、それに従わなければならないのだろうか。実際にはそんなことはなくて、わたしが好きになるのも、嫌いになるのも自由だ。
 もちろん、仕事として必要最低限これくらいの関わりをしなければならないとか、血のつながった親として子どもの面倒を見るとか、家で親の介護をするとか、そういう場合にはそれに見合った関わり方をしなければならない。その役割を放棄して、好き勝手に振る舞うというのは責任がある以上してはならない(もちろん、どうしても子どもの面倒を見ることができないとか、親の面倒を見れないということであれば、施設等へと預けるという選択肢はある)。
 でも、たとえば道ですれ違っただけの人とか、何かのグループ活動に参加している仲間とか、同じ学校の仲間とか、そういった関係性であれば、特にこれと言って責任らしい責任もなく、利害関係はないようなものだから、誰と付き合い、誰と関わらないかというのはその本人に委ねられていることであって自由なことなのだ。
 が、わたしはそこに相手への束縛である強制することを持ち込んでしまっていた。
「あの人はわたしを愛するべきだ。なぜなら、わたしにはそうされるだけの価値があるのだから」、と血のつながりのない赤の他人に求めてしまう時、話はややこしくなり、問題はこんがらがってくる。一見するとこの理屈は正しいかのように見えてしまう。わたしには価値があるのだから、あの人がわたしを愛することは当然なことであって、それ以外に選択肢はない。
 でも、冷静に考えてみると、本当にそうなのだろうかということに気付く。わたしがもしも逆の立場で、ある女性から恋心を寄せられたとしてみよう。わたしはそれに応えなければならないのだろうか。その女性が価値があるからという理由によって、わたしにそれをしなければならない義務のようなものがあるのだろうか。わたしの気持ちなどは一切考慮されることもなく、必ずその人に「Yes!!」と言わなければならないのか。
 恋は盲目との言葉どころか、わたしがどれほど痛い男だったかということがこれで分かった。相手の好みや好き嫌いや考えなどお構いなく、とにかく「わたしの好意に応えろ!!」と迫ろうとしていたわけで、それがいかに暴力的で身勝手でさえあったかと寒気がしてきたくらいだ。
 人は価値があるからという理由でそれを必ず受け入れるほど単純な生き物ではない。そこには好き嫌いや直感や価値観などのような複雑な要素が絡み合うのだ。
 どんなに世間一般で美人とかイケメンと呼ばれるような顔をしていても、それを「カッコ良過ぎるから嫌」とか「そういう感じの美人は自分の好きなタイプではない」と拒絶されることはある。どんなにお金をたくさん持っていて、その人と結婚すればいい暮らしができるとしても、それでもいろいろなその他の理由を挙げて「一緒になりたくない」とこれまた拒絶されることもある。これは、健康にいいからウォーキングなどの有酸素運動や筋トレなどをやった方がいいと相手に勧めることと同じようなことであって、価値があるから必ずしも受け入れられるわけではないことを物語っている。どんなにいい物でも、どんなにいい人であっても、好みに合わなければそれはその人にとっては魅力的な物や人ではないのだ。もちろん、そうは言っても、多くの人がパートナーに容姿やお金を求めて、それがなかなか重要な要素であることは否定できない。多くの人がそれを高く評価して価値を認めているだろうことは事実だ。しかし、それが全てかと言ってしまえばそうではなくて、容姿がいいことにも重きを置かなかったり、全く価値を置かない人もいるのだ。ただ、オールラウンドにモテるためには、容姿やお金は必要だろう。それがあれば、多くの人に受け入れられるだろうとは思う。けれど、それは多くの人に受け入れられる要素だったり属性を持っているだけのことでしかなくて、だからそれが完璧だということではない。
 では、本当に成熟した男はどんな風に振る舞うのだろうか。どんな行動を取るのだろうか。それは自分の気持ちを満たすことだけを考えるのではなくて、相手の幸せを願って、どうしたらその相手の人が幸せを感じることができるかと常に考えるあり方を取るのだと思う。自分の気持ちを満たすことだけしか考えないとしたら、それは相手を単なる自分の満足を満たすためのおもちゃにしているだけでしかない。それがさらに極端になると性的なおもちゃとしてその相手を利用するだけとなる。そんなあり方が幼稚で未成熟なあり方だとしたら、本当の意味でダンディで素敵な男は、相手がどうしたら成長していけるのかと考えるはずだ。綺麗な花だからと言って、無理矢理つみ取ってしまうのではなくて、その花をどういう風に扱ってあげたら、その花は喜んでくれるだろうか。より長く美しく咲かせ続けることができるだろうかときっとその男は考える。そういう男が本当の意味で成熟している。自分が幸せになるために利用するのではまだまだ人間として青いのではないかとわたしは想像する(現にわたしは青いどころか傍若無人でさえあったけれど)。
 そのダンディな男は、自分とその相手が一緒になることによって、彼女の自由が奪われて良くない方向へと行ってしまうようなら、喜んで身を引くことだろう。彼女が幸せになることの妨げに自分がなっているなら、何も自分の欲望を満たすことだけに固執したりはしないのだ。そうした自分の思いよりも、自分は彼女に一体何ができるのだろう。幸せになるために何かできることがあるとしたら一体何だろうときっと考える。自分にできることは彼女を幸せにすることではなくて、彼女が幸せになることを手助けすることだけ。そのことをしっかりとわきまえているから、彼女を束縛したりしないし、彼女の意思をとても尊重した接し方をする。
 わたしは幼稚だった。全然、相手のことなんて考えずに自分の気持ちだけで突っ走ろうとしていたし、相手の気持ちなんてお構いなしに「愛してくれ」と一方的に迫ろうとしていた。相手を独占して自分のものにしたかった。相手の人格も価値観も好みもそんなことお構いなしに。
 あの人を手に入れるためにわたしには何ができるだろうか、ではなくて、あの人に幸せを感じてもらうための手助けとしてわたしには何ができるだろうか、では大きく違う。前者はその人を手に入れることが目的となってしまっていて、手に入れたら相手を独占し続けるために縛り付けることは目に見えている。それだと相手の自由を奪い窒息させてしまう。ただ自分の所有物として従わせようとするだろうし、相手の自由なんてきっと認めない。一方、後者は自分本位ではなくて、自分には何ができるのだろうと相手の幸せを考えている。また、その姿勢には謙虚さがある。わたしは彼女を幸せにはできない。できるのは幸せを感じてもらうための手助けだけだ、と。
 と、この文章を書いていたら何だかとても心が平和に穏やかになってきた。そうか、わたしは彼女の幸せを願えばいいんだと方向転換することができたように思う。何か魅力的な人を手に入れたいという気持ちは分からなくもないけれど、それだけだと自分のことしか考えられなくなる。そうではなくて、相手にとって何が最善なのかと考える。何がその相手を喜ばせて、より幸福感を高めるのかと考えて行動するというわけだ。だから、彼女を自分のものにできるかどうかということにはこだわらないことになる。
 でも、その一方で、水を差すようだけれど、一体わたしは彼女の何を求めているのだろうとも一度考えてみる必要がある。ただ単に彼女の美しい容姿と肉体に恋い焦がれているだけなのか、それともあの人柄に惚れ込んでいるのか、それとも両方なのか。またはその他の要素が好きで仕方がないのか。
 きっと、というか確実にわたしは面食いさんだから彼女の見た目に惹かれているだけなのだと思う。だとしたら、彼女の内面なんてどうでもいいということなのだろうか。ただ、その美しい顔ときれいな体だけを性的に堪能できさえすれば後はもう用はない、ということなのだろうか。身も蓋もないひどい話ではあるけれど、これはその人が好きというよりは性的な対象として欲しているというだけなのではないか。こうした自分の醜い欲望とも向き合う必要がある。きれいな人なら他にもたくさんいる。いや、彼女よりもきれいで魅力的な人だっているのだ。それでもわたしは彼女に価値を認め続けるのだろうか。手厳しい質問ではある。好きだというけれど、何が好きなのかというのは一番痛いところで自分の醜さが露わになる。だからこそ、自分に問わねばならない。わたしは彼女の何に惹かれていて彼女に何を求めているのか、と。
 パートナーというのは手に入れてそれでお終いではない。そこから始まるのだ。始まっていくのだ。それも何十年も、老いていき死に別れる時まで。
 わたしはその人の幸せになる手助けとして一体何ができるのだろう、という考えは何もパートナーばかりに限定されるものではなくて、すべての人間関係、それも自分にとって大切な人との関係において言えることだろうと思う。そして、自分にできることは相手を幸せにすることではなくて、その手助けをすることまでで、その幸せを実際に感じてそう思うことは本人にしかできない、ということはいくら強調しても足りない。幸せを感じるのはその周りの人たちではなくて本人。その人のために何ができるのだろう、と考えつつこの限りある人生を歩んでいけたらと願うばかりだ。
 もしかしたら、自分のものにしようと引き抜くのではなくて、栄養を与えて育てるということなのかもしれない。
 一体わたしに何ができるのだろう。大事な人のために何ができるのだろう。幼稚な俺様人間を卒業して相手の幸せを願うことのできる人になりたい。自分が、自分がじゃなくてね。自分の物にしようとするばかりではなくて、ね。

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