毒ではなく愛を吐け

いろいろエッセイ
この記事は約9分で読めます。

 わたしはここ数年、テレビを見ていない。だからなのか、どうもブラックな笑いというものについていけない。
 人はどんな時に笑うかと言えば、これがすべてではないけれど、人を見下して小馬鹿にする時なのだと思う。容姿が良くないこと、髪の毛が少なかったり無いこと、頭が良くないこと、運動ができないこと、太っていること、などなど。
 お笑い芸人などでその自分のネガティブな部分を売りにして笑いを取っているのは良くないことではあるものの、仕方がないことだと思う。でも、一般人というか普通の人にとってはいじられることは不快なことでしかない。もちろん、いろんな人がいるから容姿などのコンプレックスのことを馬鹿にされて、逆にそこから開き直ってそれをネタにして周囲の笑いを取れるメンタルの強い人もいる。けれど、それは少数派なのだ。大抵の人はひどく傷付く。立ち直れないほど打ちのめされる人もいれば、そこそこのダメージを受ける人までいろいろだ。
 何でこんな話をし始めたかと言えば、今日ある人から、わたしのマスク、メガネ、帽子が完全防備だからと、その様子を茶化すかのように、「補導されないですか?」みたいなことを言われたからだ。一瞬わたしは状況を飲み込めなかった。あまりにもサラっと来たものだから、自分が何を言われたのかということも分からなかった。でも、時間が経ってこれはひどいことを言われたのだという実感がわいてきた。
 これはわたしをいろいろな面から否定する言葉なのだと思う。わたしの服装、雰囲気、人格的なもの。それらをその一言の質問で全否定しているのだ。つまり、お前は挙動不審で怪しい雰囲気を放っているのだということに他ならない。それは「今日のファッション、挙動不審ファッションですね」「不審者ファッションですね」と言われているようなもので、それはその服装を身にまとっているわたしの人格だったり人柄だったりも同時に切り裂く鋭い言葉なのだ。
 わたしが過敏過ぎるのだろうか? そういう言葉にはこちらも軽いノリで返して「いやぁ~、今日も補導されるために頑張ってきたんスよ。補導される気満々でしょ?」みたいに返せばいいのだろうか。小馬鹿にされていじられたら小気味良く重くならないように返した方がいいのだろうか。が、わたしにはそうは思えない。
 昔のわたしだったら(今は穏やかになって落ち着いたので)きっとその相手を罵るか胸ぐらをつかむことくらいはしていただろうと思う。それかそういったことができずに、ただただ「自分って不審者に見えるんだ」と落ち込んで死ぬことを考え始めていたに違いない。
 でも、わたしはここで自分が不審者だと見られるのがすごく嫌だ、一緒にしないでくれなどと彼らのことを見下してしまっていたけれど、不審者だって補導される人だって懸命に毎日を生きていることに変わりはない。彼らには彼らなりの生きづらさや苦悩や葛藤があって、そのためにいろいろな問題を起こしているのだから、ただ見下すだけで片づけるというのは良くないとわたしは思う。こう考えると、わたしにさきの言葉を言った人というのは、わたしとその補導される人全般に対して上から目線で見下すように見ていることは言うまでもないことだろう。自分は補導されるような人間ではない、という前提がもうありありとしている。というか、自分も日頃、よく補導されているのなら、そんなことは言わないし、言えないだろう。それはたしかだ。
 しかもさきの人はわたしに精神障害があって働いていなくて年金暮らしだということを知っているのだ。だとしたらなおのこと、あの言葉は悪意に満ちているとも取れる。何かあの言葉には、補導される人に対してだけではなくて、精神障害がある人への何か自分がそうではないという優越感だけではなくて差別する感情さえもが感じられるのだ。自分とは異質な、つまり「お前は異質だ」、もっと言えば異常だと言いたいかのような、そんな心が透けて見える。
 昔、テレビのお笑い番組を見ていた時にはわたしはそういったネガティブな属性をいじって取る笑いを何とも思わなかった。ただ、その流れを何の違和感も抵抗もなく素直に笑っていた。だからわたしにはさきの人を断罪して裁く権利も資格もない。
 数年前に吃音(きつおん)の高校生の女の子が主人公の「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」という映画があった。この映画は同名の漫画が原作で映画化されたものだった。で、その映画でわたしが最も印象的に残っているシーンがある。それはその主役の志乃に友達ができたのだけれど、その子はその志乃がどもっても何も笑わなかった。けれど、志乃はその友達の歌を聴いて思わず笑ってしまったのだ。その友達は音痴だった。それも本当にひどい音痴で音をとにかく外して本人は真剣で真面目なのだけれど上手に歌うことができなかった。志乃はひどい吃音だったから人の痛みが分かるはず、なのに友達の音痴な歌を笑う。その冷酷な現実というか何というか、綺麗事抜きの描写がわたしに迫ってきたのを今でも覚えている。
 誰の心にも差別する感情がある。それは事実だ。わたしは違うんだ。彼らとは違うんだ。わたしの方が優れているんだ。などと言葉にしないまでも無意識のうちにそれを思っている。もちろん、自分はそんなではないと、自分だけは清くありたい、いい子でありたいとそんな差別する自分自身を認めたくない気持ちがある。でも、現にわたしはどんな人を、とここでは敢えて明言はしないけれど、ある特定の属性を持った人たちを見下している。彼らと自分は違うんだ。自分の方が彼らよりも優れていて、自分の方がイケているんだと思ってしまっている。ああはなりたくないとさえ思う。醜い、どこまでも醜い現実のわたし。
 聖書にたしかこんな話があった。不倫をしてその現場で捕らえられた一人の女性がいて、その女性を引きずり出して皆で石を投げて打ち殺そうとしていた。その時にイエスさまが「どう思うか?」と意見を求められた。するとイエスさまは「罪のない者がこの女に石を投げなさい」と言う。そうしたら、次々に石を投げようとしていた人たちは去っていき、イエスさまとその女性だけになった、というお話。
 この聖書の話のように、わたしにだって差別する心があるのだから、さきの人のあの言葉を裁く資格はわたしにはない、のかもしれない。ただ、だからと言ってその人とこれからも親しく付き合っていきたいかと言えばそうは思えなくて、そこのところは難しい。もしわたしがこの問題をクリアーできたとしたら、キリスト教の聖職者のようにむしろ悪い人とは積極的に食事なども一緒にして親しく交わろうとすることになる。そこまでは、できない。そこまでわたしは立派なクリスチャンではない。あぁ、そうか。だからイエスさまは赦しなさいと言われたのだ。どこまでもどこまでも赦し続けなさいと言われたわけだ。そして、「裁くな」とも。
 そのさきの人とはちょいちょい話をする機会があったのだけれど、その度にその人はブラックというか、毒のようなものをわたしに吐いてくる。その言うことは大抵わたしへの批判であって小言のようなものだった。「いつも同じ服を着ているけれど、他にないんですか?」「今までひきこもってたんですよね?」(わたしがひきこもっていたのが当然とばかりの質問。ちなみに、わたしはひきこもりでもなければ、ひきこもったこともない)、「お仕事何されているんですか?」、そしてその人にわたしが働いていないということを伝えると「じゃあ、どうやって生活してるんですか?」とまるで将棋の連続王手のようにビシバシと知り合ってからあまり時間が経っていないのに問い詰めてくる。わたしのプライベートな領域にズカズカと土足で上がり込んでくるとはまさにこのこと。で、洗いざらい白状(というか本当のことを言ったまでだけれど)したわたし。
 わたしが気が弱そうで何を言っても怒らないし大丈夫なのだろうと多分その人からは思われている。その人はおそらく育ちがあまり良くない。普通は、そんな知り合って間もない人に矢継ぎ早に生計のこととか仕事のこととか問い詰めたりはしない。良識のある人ならかなり懇意になってもあえて配慮して触れないものだ。人のプライベートな領域にはズカズカ上がらないものだ、普通は。それに普通はそんな相手を批判するようなことも言うものではない。そうではなくて、育ちのいい人や良識のある人は相手のいい点とか感心できる点をほめる。決して、いつも同じ服を着ていることを指摘して別のがないのか、とかなんて言わない。また、精神疾患があると聞いて、だからイコールひきこもりだとするのも短絡的で偏見がありすぎる。その人は、精神障害がある人は十人十色でみんな違っていて同じ病名であっても同じ人などいない、ということさえも理解していない。
 その人はきっと今日に至るまで苦労してきた(はず。想像でしかないけれど)。もしかしたら想像を絶するような泥水をすすってきたのかもしれない。その一言、一言からは成功することへの憧れや渇望、お金に重きを置く姿勢、この世的な優れた人(パートナーとして求めている)や暮らしやモノなどを好み、それらを手に入れたいという気持ちが伝わってくる。それも無理はない。きっと苦労してきて、今も苦労しているのだから。だからこそ、何も働きもせず、安穏と暮らしているだけの気ままなわたしを見下して、言うならば小馬鹿にしてくるわけだ。きっとそうすることによって、自分が優位に立てているかのようで気分がいいのだろう。弱い者がさらに弱い者を叩く。そして、どこかほっと安心する、ということだ。多分。
 でも、そうして外的な、外側のものを求めていっても行き詰まることは目に見えている。そういったものは際限がなく、足るを知ることができなければ、もっともっとと終わりがないからだ。
 ヨガもそうだけれど、外側の形ばかり求めていっても意味がない(と思う)。美しく力強いヨガのポーズが取れるということは何かそれだけで素晴らしいことであるかのように思ってしまうけれど、それに精神性が伴っていないとしたら、それに何の意味があるのだろう? わたしは意味がないと思う。そうではなくて、形も大切だけれど、それ以上に自分の内側の世界を探究して磨きをかけていくことが何よりも大切ではないだろうか。
 同じように、学歴、所得、ステータス、名声、容姿、資格、家など外側の目に見えるものは分かりやすいものではあるけれど、それが本質ではない。本質はその人がどういう人か、ということ。それを見る基準として学歴だったり所得だったりがあるものの、それだけでは人の価値は計れない。それもある。でも、それ以上にその人の人柄だったり人格だったり考え方だったり生き方の方が重要なのだと思う。よくいるじゃないですか。お金持ちとか高学歴でいわゆる高スペックなのに鼻持ちならない人が。反対に、この人はお金もなくて何も業績らしい業績を残せていないのに、何か素晴らしくてこの人と関わりたいな、という人もいますよね。
 わたしが何か不審な人に見えて、補導されるなら補導されればいい。何も危険な物は持っていないし、指名手配犯でもないのだから、職務質問なり何なりしてくれればいい。ただ、そういうデリケートな問題についてそれを茶化したり小馬鹿にするギャグのような感じで言ってしまうというのが問題なのだ。そういうことを言えるのなら、お世辞でも何でもいいから、「その帽子素敵ですね」とか「今日の服装カッコいいですね」「メガネが似合ってますね」などと言ってもらいたいものだ。その方が世界は平和になる。その方がいいじゃないか。平和になるのだからさ。
 と、くれぐれも言っておくけれど、精神疾患系男子に「補導されないですか?」とか言っちゃダメだからね。ギャグとしても通用しないからね。ただでさえメンタルが弱い人にそんなこと言っちゃダメだよ。それよりはほめてあげて。少しでもいい所を見つけて「素敵ですね」とか言ってほめてあげて。
 毒ではなく愛を吐けるようになりたいものです。心からそう思います。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました