人生は健康になるためにあるの?

いろいろエッセイ
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 気が付くと自分にダメ出しをしている。特に健康についてはそれがひっきりなしといった感じで、「今、食べ過ぎだよ。しかもそんなに炭水化物ばっかり摂っていたら体が糖化してしまうよ。もっとタンパク質や脂質をバランス良く摂って野菜も食べなきゃダメ」とか、「昨日寝たのが少し遅かったから睡眠不足。ちゃんと寝ないとお肌も荒れるし、血圧も上がるし、血糖値だって上がる。ダメだなぁ」なんていうものもあれば、「今、つぶあん結構たくさん食べたでしょう。だからダメなんだよ。砂糖を摂るのは健康のために良くないんだから」などと自分への批判が止まない。
 これもみんな自分のため。自分にダメ出しをすることによってわたしはより良く進歩向上していく。ダメなところを指摘してそれを是正してより良くしていくわけなんだ。でも、何だかこれが苦しくなってきた。まるで息が詰まるような、何て言ったらいいのか、まるで自分が健康であるために、健康になるために生きているかのような心地さえしてきたのだ。
 でも、自分自身を上から俯瞰して眺めてみると、ただそこに、人生という道にぽつんと一人たたずんでいるわたしがいる。そして、問う。わたしは何のために健康になろうとしていたんだろう、って。っていうか、健康になれなかったら生きている意味とかないのかな、って。
 話が少し暗くなってきたけれど、まったくというか普通に考えてみれば全然そんなことはないだろうと思う。よくおばちゃんなんかでも健康オタクの人というのは必ずいて、テレビであれがいいと聞けばそれを熱心に生活に取り入れて、そしてまた別のものがいいと聞けばそれへと走る。そんな分かりやすい人はいるものだけれど、そもそも健康って人生の至上命題であり、最大の目的なのだろうか。とにかく健康になること。それがすべてであると言っても過言ではなくて、すべては健康になるためにある。このわたしの命も、わたしの人生も。
 でも、それは違うんじゃないかとわたしには思えてきた。その健康こそが人生の目的という考えに違和感を覚えだした次第。人生の目的というのは健康であること、健康になることではなくて、それとは別の何かがあるのではないだろうか。そう、目的が。あ、でも健康になることが人生の目的だという人がいてもいいと思いますよ。否定はいたしません。でも、ただわたしはそうではないというだけの話で、それはそれでありだとは思う。
 わたしは、わたしの場合には健康が人生の目的ではない。そうだなぁ。わたしの人生の目的って少しまだぼんやりとしているんだけれど、やっぱり平安を得ることかなぁ。で、その平安を得るのだったら体がベースというか資本だから、その平安を乱されないためにも健康でいたほうがベターかな、くらいの位置づけだったりする。だから、超絶の健康を手に入れることができなくても、ほどほどに健康であればいいわけなんだ。この「ほどほどに」というのがミソで、たしかに大病なんかをしてしまうと平安を手に入れるのは難しいからある程度の健康は必要。でもだからと言って、スーパーマンのような鋼の肉体とか、病気一つ知らない健康体であるとか、そこまでは必要ないんだ。ほとほどであればいい。
 そう考えたら何だかすごく肩の荷が楽になってきた。皆さんもそんな風に思いませんか? 完璧な健康でいなければならない。体に悪いことは一切やってはいけなくて、常にストイックに我が道を邁進し続ける。ストイックにストイックに歩み続ける。それはそれで一つの道で、ありだとは思う。けれど、それは万人に可能な道ではない。山登りで言うなら、かなり険しい道なのはたしかだ。つまり、以前のわたしはそんな風だったのだ。
 わたしは健康になろうと努力してこれまでやってきた。お酒をやめ、タバコはもともと吸っていないし、カフェイン飲料(コーヒー、紅茶、緑茶など)もやめ、砂糖もやめ(今は何だかんだで砂糖を再開してしまったけれど)、と我が道を進んできた。でも、ふと思うのだ。それで自分が心地良ければそれでいいんじゃないか、と。人から「すごい」だの何だの言われなくても評価されなくてもともかく自分が心地良くて幸せ。それが食生活においてはすごく大事なことなのではないかと気付き始めたのだ。
 いつしかわたしは気が付くと健康を神様か何かのように至上のものとして祭り上げていたのかもしれない。でも、わたしは考え直した。健康はほどほでいいんじゃないか。それでもダメだと思ってしまうのだとしたらそれは執着なのではないか。そのことにしがみついていて苦しくなってしまっているのではないか、とね。だから、手放す。健康を完全にとまでは行かないけれど、ある程度のところまでは手放す。健康第一といった考え方から距離を置いて、自分自身のあり方を見直す。
 ほどほどでいいじゃないか。何もそこまでストイックに自分を追い詰めなくても。というか、いずれわたしも歳を取っていけば衰えていく、朽ちていく自分自身と向き合わなければならなくなる。その時に、もしも自分の肉体というか健康にどこまでも執着し続けていたら失望して落胆することになる。だから、だからほどほどでいい。健康は。そして、すべての物事は。自分が心地良く快適でそれで良しと思えるのであれば、それでいい。そういうように、こうあらねばならないというガチガチの思考を少し柔らかく解きほぐしてみるとまた違う景色が見えてくる。
 わたしはモデルでも俳優でもアイドルでもない。つまり、わたしの体は商品ではないのだ。だから、そこまでのクオリティーを求める必要はないし、求められることもない。巨匠の彫刻のような肉体美になれなくてもいい。多少お腹が出ていても、肌が荒れていても、かかとが少しガサガサしていても別にいい。それで大きな健康被害がなければそれでいいのだ。
 これからわたしも50代、60代と歳を重ねていくわけだけれど、自分自身の肉体への過度なこだわりを手放すことができたらなと思う。形あるものはいずれ朽ちていく。家も古くなっていくし、家族も友達もパートナーもみんないずれは死ぬ。自分で拵えた財産だって誰かに最終的には使いきれなかった分は譲り渡していかなければならない。この地上にある形あるものは永遠ではない。だからこそ、この肉体を用いつつもそれに縛られすぎないことが大切なんだ。健康への執着。この多くの人が陥りがちなものを手放せた時、また違う景色が見えてくるのではなかろうか。
 体にいいことはしつつも、それにとらわれすぎない。そんな風にやっていけたらなと思う。



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