どこまで手放して自由になる?

ヨガ
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 事あるごとにわたしの気持ちをかき乱し、ネガティブな気持ちにするもの。それはこのブログのアクセス数。ってこういう打ち明け話みたいなことを書くから、また貴重な読者の皆さんが離れていくのだよ、と思えないこともない。が、書く。というか、自分の中にとどめておくということがわたしは苦手なんだ。だから、結構いろいろ正直なところを書いちゃう。カウンセラーにでもなったら守秘義務違反で一発でアウトだろうな。ならなくて良かったよ。
 わたしがイラついたのは昨日書いた記事のアクセス数が1だったこと。今の時代は便利で記事ごとにいくつアクセスがあったかどうか、というところまで分かるんだ。だから、昨日の記事が1しかアクセス数が得られていないことだって分かってしまう。で、この1ってね。母の1なんだよ。完全に身内のことでありますけれど、母がスマホでアクセスした1なの。これってね~、すごく寂しいよ。母がわたしの記事を読んでくれました、というだけで終わっているっていうのがいやはや何とも言えないくらい堪える。
 みんな~、わたしの最新記事をもっと読んで~。とわたしが言えば、だって面白くなさそうだし、役に立たなそうだし、いつも星さん自分のことばっかり書いてて読みたいとは思えないんだよ、といった声が聞こえてきそうだ。
 ってわたし、イタイ人になってるよね。絶対なってる。わたしイタイ人。よくいるじゃん。アイドルになりたいっていう女の子。とにかく自分が注目されたくてチヤホヤされたいと思っている。で、聞かれてもいないのに自分のことをペラペラペラペラ遮られるまで話し続けて、まるで一流芸能人気取りで、やたらと誰も欲しいとは言っていないのに大量のサインを配ったりしているようなそんなイタイ子。わたしはサインは配ったりはしていないけれど、やってることはこのイタイアイドル志望の女の子と同じ。みんなが求めてもいないのに3000文字とか下手したら4000文字にもなる長文の記事を書いてはそれを得意そうにアップしている。これは女の子がペラペラ話しているのと同じようなことで、誰も求めてなんかいませんよ、星さんの個人的なことについて。それは思想、信条そして考えていること、いろいろあるとは思うけれど多くの人はわたしが何に興味があって、何をしていて、何を考えているかなんてことには興味がないんだ。もちろん、これがジャニーズの国民的アイドルだったりすれば多くの人がその一挙手一投足に注目して関心を集めることだろう。でも、わたしはただの人。普通の人。どこにでもいる一般人で、何かに秀でているわけでも何か特別なことが高いレベルでできるわけでもない。だとしたら注目されなくても当たり前なのだけれど、でも、それがすごく堪えるんだ。要するに、「わたしを見て、見て!!」から脱却できていない。わたしが、わたしがのレベルを超えてもっと成熟した大人の段階になれていないのだ。
 ブログのアクセス数を見てネガティブモードになったわたしはふとヨガの雑誌に手を伸ばした。そうしたらあぁ、そうだったのかとあることに気付いて冷静になることができた。それは何だったかというとわたし自身が執着しているということに気が付いたのだ。自分が注目されること、脚光を浴びること。そのことに執着していたのだと気付かされた。わたしは自分の記事が読まれたいという思いにしがみついてしまっていた。一生懸命に書いた記事。だからこそ、それが無視されると嫌な気持ちになる。こんなに頑張って書いたのに無視? それってひどくないですか? 怒りさえこみあげくる。でも、一旦、目をつぶって心を落ち着かせて、今の自分の置かれた状況をまるで他人事か何かのように眺めてみる。すると、何だかすごく滑稽なんだ。どうでもいいことだとは思わないけれど、本当にささいなことについて思い悩んで、そのことによって振り回されている。そんな自分の姿が見えてくるとなぜか笑ってしまう。自分、小さいっすねぇ、と。
 誰だって一生懸命料理を作ったらそれを食べてもらいたいと思うもの。だから、それを素通りされたり、けなされたりすれば心穏やかでいることはできない。頑張ったらその報いを得たい。評価されたいと思うのは人間として自然な感情。でもね、どんなに頑張って料理を作ったとしてもそれを食べてもらえないことは往々にしてある。忙しくて食べる時間がないとか、別の料理屋の料理を食べたいと思っているとか、あまり食べる気がしないとか(おいしそうに見えなかった)、体調が悪いとか、などなどいろいろみんな理由があるのだ。際立った箔のない店の料理を食べたいと思ってもらうのは難しいということもあるだろう。どこの誰だか分からず、あまりおいしそうな感じがしない店の料理というものは誰しもがすすんで食べようとはしないものだ。
 店の売り上げ。知名度。人気。そうしたものを気にしてどこまでも結果を求めていくというのも一つの行き方ではある。けれど、悪く言えばそればっかりを気にすることはやっぱりそのことにしがみついて執着しているんだ。
 手放す。ブログのアクセス数が少ないということを手放す。なかなかこれが難しいわけだけれど、そもそも偉大な聖者はブログなどやらないし、興味すらない。この世的な名誉や栄誉を得ること。そんなことはどうだっていいのだ。むしろ、それらに執着して囚われてしまっていることを彼らは指摘するのではないかと思う。もしかするまでもなく、この世で成功することなんてたかが知れていることなのかもしれないと思ったりもする。かえって、いろいろな重圧が自分の肩に乗っかってきて息苦しいのかもしれない。わたしはただの人で~す。お金も地位も名誉もそんなものはあっりませ~ん。ケセラセラ~、と笑っているくらいが一番身軽で幸せなのかもしれない。まさに令和の無責任男(笑)。
 ここまで書いてきてさらに気が付いたのは、自分の立ち位置がはっきりしていないんじゃないかということ。名誉、社会的地位、お金。そうしたものを手に入れようとする方向で行くのか。それとも、そうしたものは手放して気にせず生きていくのか。この二者択一ができていないのだ。だから、要するに中途半端で、この世的なものも欲しいけれど、執着も手放せたらな~とそもそも無理なことを実現させようとしているわけなんだ。となれば結局、わたしは中途半端なまま宙ぶらりんでいることになる。社会的成功を手に入れようとしながらも執着を手放そうとするなんて、そんなの無理、無理。どう考えても無理。両方同時にやろうとすれば中途半端にならざるを得ない。でも、一方でその中途半端な煮え切らないぬるま湯のような感じで行くというのもありだろうとは思う。今のわたしがそれなんだ。
 うー、今のまま何事においても中途半端な感じで突き進んで行くのか。それとも社会的成功を貪欲に追い求めていくか。あるいは、もうそういったものは要らないと手放して進むか。これらはグラデーションだとは思うのだけれど、大きく分けて三択ってわけか。どう進むか、進んでいくか。その進み方次第だな。
 わたしがこれから自分のこの成功への執着をどの程度手放していくのか、いや、手放さずにいくのか、なかなか難しいところではある。プチ手放しでも、多くを手放すでも、すべてを手放すでも、程度を決めなきゃね。まずはそれから。わたし自身がどの立ち位置でやっていくかということ次第なんだ。物や考えを少しだけ手放すことから、果ては持ち物をすべて手放す、そして究極的には命をも手放すまで、と手放すにも幅がある。
 逆に言えば、わたしはどこまで自由になりたいのだろう、とも言える。これも程度によるから難しいところではある。ちょっと考えてみたいと思う。我ながら肝心なことに気が付いたようだ。難問ですね。むずかしい。

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