それでいい

いろいろエッセイ
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 物思いにふけってしまう時がある。わたしは何で生きているんだろう、って。
 とは言っても別に死にたいとかそういうわけではない。ただ、ぼんやりと考えてしまうんだ。自分の生きている意味。そして生きていくことの目標だったり目的について。
 果たしてわたしは必要な人間なのだろうか。いてもいなくても同じなのではないか。そんな風に考えてしまうのは、意味というものが絶対的なものではなくて主観的なものだと思うからだ。人生の意味にしろ、いろいろな意味にしろ、はたまた価値にしろ、すべて主観的なもの。わたしが何かに意味や価値があるとする。何かに価値を見出しそれを大切にする。けれど、それらも主観的なものでしかないんだ。
 要するにわたしは自分に確固たる価値が欲しいんだろうな。絶対に揺らがない価値が。
 わたしがキリスト教の洗礼を受けたのは天国へ行きたかったからだとこのブログにも書いたことがあったかと思う。と同時に、よくよく考えてみると自分に絶対に揺らがない価値が欲しかったというのも潜在意識的であるにせよ、秘められた理由としてあったんじゃないか。
 神様が万物を造られた。だから、あなたもわたしも神様の作品で、神様にとってはどれもが必要で価値があって尊い尊い器のようなものなのだ。そう考えると自分にすごく高い値札を神様によって付けてもらえているような、そんな安心感が生まれてくる。あぁ、わたしには価値があるんだ、と心穏やかに安らいでいられる。
 が、もしも神様がいないとしたら、神様が人間の空想の産物でしかないのだとしたら、途端に盤石な支えを失うことになる。神様がいることを確信していた時には、絶対的でかつ絶対的に正しい神様がわたしを価値あるものとしてくれていた。神様がわたしのことを価値があると言ってくださっていて、思っていてくださるんだから無敵だよ。それくらいの気持ちでいた。まさに大船に乗ったような気持ち。
 その確信が揺らぐ時、途端に人は不安定になる。自分を価値があると思うためには、自分で自分のことを価値があるとみなしてそれが正しいと思うか、あるいは誰か信頼できる人だったり、多くの人から「あなたは価値があって素晴らしいよ」と評価してもらうか、その両者を同時に行うかしかない。となると、自分を含めた人間からの評価というものは絶対的なものではないから変わったり揺らいだりする。自分で自分のことを今まではあんなに素晴らしいと思えていたのに今はそう思えなくなった。今までは誰々さん、またはみんながわたしのことを評価してくれていてほめちぎって絶賛してくれていたのに今ではあるわたしの不手際、不祥事が原因でそう評価してもらえなくなり、むしろ「お前なんて価値がないよ」と言わんばかりの態度を取られるようになった。もろい。要するに人からの評価というものはもろいのです。そして、危うい。人というのはもちろん自分も含めていて「わたしって結構すごいじゃん」とか「わたしって偉い」などと思える時もあれば「何てわたしってダメな人なんだろう」と思う時もある。だとすると、わたしの価値というものはまるで風に吹かれて翻弄される木の葉のように、あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆらと揺れっぱなしになる。
 そんな、人(自分も含む)からの評価に揺られっぱなしのわたしがさらに追い打ちをかけられるのは、何かわたしが今この世界から消えても何事も問題がないように思えてしまうことだ。それはたとえるなら、世界にいる80億もの人間の中で1人くらい死のうが行方不明になろうが別にそんなことどうでもいいことなんだよ、とでも言わんばかりなのだ。しかし、もちろんわたしが今、何が理由かは分からないけれどこの世を去ったら母は生きていけないほどのダメージを受けるだろうし、精神保健福祉士のWさんも悲しむだろうし、少しでもわたしのことを知っている人たちは喪に服して悲しんでくれることだろう。でも、ドライな言い方をすればそれだけなのだ。わたしの狭い世界の人々がわたしがいなくなったことを悲しむ。ただ、それだけのことなのだ。要するに何が言いたいのか。それはわたしが大海の一滴に過ぎないということ。大海を成すには一滴の水が集まって集まらなければならない。でも、その大海の中で一滴水が蒸発したところで、それに誰が気が付くの? それは大海マイナス一滴なだけで、一滴でしかないんだ。
 こんなことを不謹慎にも考えてしまう時、ブルーハーツの歌詞が心にしみる。ロクデナシという曲があるんだけれど、その歌詞で「お前なんかどっちにしろ、いてもいなくてもおんなじ。そんなこと言う世界ならケリを入れてやるよ♪」というのがある。多分、ブルーハーツのこの曲も彼らが都会へやってきて、あまりの人の多さにまるで自分が「いてもいなくても同じなんだよ」と言われたかのように感じたからこそこうした言葉が紡がれたのではないかとわたしは想像する。
 わたしの影響力から考えるとわたしがいなくなって困るのはせいぜい数人だと思う。責任ある仕事だったり役割だったりはないからいなくなってもほとんど誰も困らないのだ。
 でも、影響力があって責任がある仕事だったり役割を持っていなければその人はいてもいなくても同じかと言えば果たしてそうなのだろうか。わたしは道端に生えている名もない草のようなものだと思う。だからみんなからは雑草呼ばわりさえされなくて、ほとんど誰にも気付かれず生涯を終える。そんな道端の草。
 でも、今気付いた。そんな雑草であっても生きているじゃないか、と。生きているんだ。わたしはわたしなりに、たとえそれが雑草のようなものでしかなかったとしても生きているんだ。高値が付く稀少な植物やみんなから愛される花ではなくて、そんな彼らが時々うらやましくなったりしてもとにかく生きているんだ。どんなに商品価値の高い草花もどんなありふれた雑草も同じ一つの命。そういう見方をすれば優劣はない。ただお金になるかならないかの区別があるだけで、どちらも同じ尊い命を持っている。どっちが優れているかなんてそんなの誰かが勝手に言っているだけのことで、同じ命を持っていることに変わりはない。あぁ、そうか。わたしはわたしとしてわたしなりに生きていってわたしらしく死んでいったらいいんだ。それから先に天国があるのか、それは分からない。はたまた、生まれ変わるのか、それも分からない。でも、わたしにもし仮に使命というものがあるのだとしたら、どんなにみすぼらしくてどんなに無様でどんなに格好悪くしか生きられないとしても、わたしのこの固有の命を精一杯生ききることなのではないかと思えてきた。
 たしかにわたしはそもそも必要ない存在で今ここにいなくても世界はそれなりに回っていくのかもしれない。わたしを必要としてくれている人なんて指を折るほどもいないのかもしれない。所詮80億人のうちの1人でしかなくて大海の一滴に過ぎないのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいことであって、それよりもこのわたしの一生というもの、この人生を生ききること。それが大事なことなんだ。
 人を含めたあらゆる生き物は、生まれて、育ち、子孫を残し、老いて死んでいく。それに意味はあるのか。どうしてもこの生涯を生きなければならなかったのか。神様抜きで考えるのだとしたらそこには意味なんてない。ただ、生まれて、生きて、死んでいく。ただそれだけ。でも、それだけだったらそれだけでもいいように思う。価値なんて所詮は主観的なものでしかないし、人間が絶対的な価値を何かに与えるなんてことはそもそもできないんだから。意味とか価値とか意義とか、そういった人間の思考の産物に翻弄されるのではなくて(まぁ、死ぬまで翻弄されるようなものだろうとは思うけれど)、今を生きる。そして、今ここにこうして生きているということをしっかりと噛みしめて味わう。それだけなんじゃないかという気がしてきた。自己実現やなりたい自分になろうとするのもいい。でも、それが一体どれほどの意味があるんだ? 自己実現を果たしてなりたい自分になったところでただそれだけのことなんじゃないか。ってわたしは努力は意味がないとか夢を持つことが無意味だなどと言いたいわけではない。ただ、そうした狭い考えを超えた先のことを言っているんだ。どんなに自己実現を果たしたところで、いつまでもこの世にしがみついているわけにはいかないし、いずれはこの世を去らなければならない。だったら、細かいことは気にしないで、地位や名誉やお金のことなんて気にしないで自分の生きたいように生きた方がいいんじゃないか。どんなに高い地位を築き上げて死後にも語り継がれたとしてもそれも束の間のことで100年後、200年後。いやいや、1000年後、2000年後にはもう忘れられている。誰ももうその人のことを覚えてなんかいない(相当偉大な歴史上の人物にでもならない限り)。お金だってどんなに手に入れてもそれをあの世へ持って行くことはできないし、使うことができるのはこの世界でだけなんだ。
 じゃあ、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをするのが最上の生き方かと言えばそれも違うと思う。それもしばらくは楽しくてもいずれは飽きてきて、それが苦痛にさえなってくる。強い刺激というものは続けることができない。となると、どんな生き方が望ましいのか? いつもの平凡な生き方、いつも通りの変わらない生活に戻ってくる。ありとあらゆる珍味やら高級料理を楽しんで贅沢三昧をして戻ってくるのは、ご飯にお味噌汁の平凡な食事なのだ。最後はここに帰ってくるわけなのですね。
 ここまでいろいろとああでもない、こうでもないと考えてきたけれど、平凡なわたしとその変わらない生活も捨てたものではないように思えてきた。わたしの人生、ビッグなことは何一つできないまま終わるかもしれない。でも、それならそれでいい。ともかく生ききること。このわたしの命を全うすること。これがわたしの使命だと思う。難しいことをああだこうだと言うのではなく、ただこの与えられた毎日を精一杯生きる。人と比べてどうかではなくて、自分なりに精一杯に生きようとする。それで十分だし、何も不足はない。
 名もない雑草として道端に命の限りあり続けたい。そして、命が尽きた時、枯れていなくなる。それでいい。それでもう何も問題はない。生まれて、生きて、死んだ。これ以上の仕事はない。付け加えるものも、ない。だから、それでいい。

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