分からないからこそ

いろいろエッセイ
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「あなたにわたしの気持ちが分かるわけないでしょう。」
 身も蓋もない話である。わたしはその攻撃的な質問に対してこう答える。
「わたしにはあなたの気持ちが分かりません。でも、だからこそあなたの話を聞かせてほしいんです。」
 わたしとあなたは別の人間だ。そして、異なる家庭環境、時代、人間関係、教育、などなど全く別物の中で育ってきたのだ。だから、わたしとあなたが本当の究極的な意味で分かり合うということはできない。そんなの不可能だ。
 本当に誰かと誰かが分かり合うことができるとしたら、それはもはや、わたしがあなたで、あなたがわたしでなければならない。つまり、自分と他者の境界線がなくなって、肉体的にも精神的にも溶け合って一つのものとなっている状態になるのである。でも、そんなことはこの現実においては無理だし、あくまでもSF的な世界でしかそんなことは実現されないだろう。わたしはわたしで、あなたはあなた。肉体的にも精神的にも物理的にも境界線は現に存在している。
 わたしとあなたは究極的な意味において分かり合うことはできない。ならば、どうすればいいのだろうか。そう、言葉を使ってコミュニケーションするのである。それがわたしとあなたに残された唯一の方法ではないかと思うのだ。
「わたしは悲しいです。なぜかと言えば、わたしは家族から邪険に扱われているからです。」と仮にある人が話をし始めたとしよう。
 これを聞いたわたしは、「そうか。悲しいのか。家族から邪険に扱われているから悲しいのか。」と了解することだろう。でも、これだけでは情報が少なすぎて漠然としてしまっている。だから、わたしは詳しい話をその人から聞き出して、詳細について知ろうとする。そして、さらに悲しさがどのような悲しさであるかについてその人に尋ねていくことだろう。
 言葉には幅があると思っている。言葉の意味に幅があるのである。わたしとあなたが同じ「悲しい」という言葉を使い合ってコミュニケーションできていたとしても、両者の言葉の意味は必ずしも完全に合致することはないだろうと思う。ズレがある。定義のズレと言ってもいいかもしれない。わたしが悲しいという言葉を割合狭い意味で使っているのに対して、あなたは広い意味で使っているということが現実に起こり得る。わたし定義の「悲しい」とあなた定義の「悲しい」は重なる部分があるものの、完全には一致しない。また、言葉の質感と言ったらいいのだろうか。言葉の感覚的なイメージにもズレがおそらくあるだろう。だから、言葉の意味を固めていくというか、規定していくためにも、「これはこういうこと?」と確認していくのである。そこで「違う。そうじゃなくてこう。」ということともなれば、意味を修正していくことによって、お互いのギャップは縮まっていき、完全に分かり合うことはできなくとも、割合近い言葉の意味でやり取りすることができるようになっていく。
 一方、こうした究極的にはお互いが分かり合えないという前提に立たない場合、どのような事態が起こってきてしまうのか。
 何よりもまず「分かる。」という言葉を多用するようになる。何でもかんでも「分かる。分かる。あなたの気持ち、本当に分かる。」と言うようになる。
 けれど、それは本当に分かっているのだろうか。わたしが思うには、それは自分の感覚や経験その他もろもろに照らし合わせて分かると言っているだけではないのか。
「わたしは悲しいです。」
「分かる。分かる。本当、分かる。」
これは極端な例だが、この人は何を分かったのだろうか、と思わないだろうか。人は話をろくに聞いてもらってもいない状況で「分かる。」と言われると本当に分かってもらえているのかと疑いたくなるものである。
 もしかしたらだが、この場合であっても、この人は話し相手の心のひだまで理解できているのかもしれない。その可能性を完全に否定することはできない。けれども、慎重に考えるのであれば、分かっていない、つまりは理解できていないと考える方が賢明ではないだろうかと思う。
 二人の人間が本当に理解し合っているか、お互いの心のひだまで理解し合えているか、について本当にそうなのか確認することができるのは神様だけだとわたしは思うのだ。だから、神様ではないただの一人の人間にすぎないわたしたちにそうしたことを確認する術はなく、目の前には言葉を使ってわたしに話している他者がいるだけなのである。そして、その他者の話を聞く、それも深く聞いていくことしかできないのだ。
 わたしたちにできること。それは相手の話を聞くことだけである。表情、声のトーン、話しぶり、話の内容、あいづち、などからわたしたちは相手のことを察することしかできないのである。
 逆に言うなら、この無力なわたしたちには言葉という贈り物が与えられている。神様からのギフトである。わたしたちは言葉を使う。そして、言葉を使うことによって繊細なコミュニケーションが可能になる。もちろん、コミュニケーションは言語だけではない。ジェスチャーや表情や体の動きなどの非言語コミュニケーションもあるのだが、それでも言葉の力というものは侮れない。
 完全に理解し合うことはできない、という前提に立つからこそ、いや、立ってこそ謙虚なコミュニケーションというものが立ち上がってくるのではないかと思うのだ。それを最初から「分かる」と決めつけてそこから出発しようとする時、各種様々な問題が起こってくる。
 人間の心はどんなにコミュニケーションを重ねても本当の意味で分かることはない。でも、だからこそ、だからこそ、分からないといううことが分かっているからこそ、コミュニケーションを取るのである。そして、少しでも相手のフィーリングなどの感情に近づいていけたらと奮闘するのである。そこにこそ、コミュニケーションの真骨頂があるのではないか。
 以上、わたしが放送大学で心理学を学びながら考えたことである。お粗末。

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