メリットなしの信仰?-信仰についてわたしが考えたこと

キリスト教エッセイ
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 強くなろう。知識を貪欲に吸収して理論武装しよう。それから体も鍛え上げて強靱な肉体を手に入れよう。
 自分を強くして敵との戦いに備える。敵と戦うためにはそういったことも必要だろう。それは認める。けれども思う。それでいいのか?、と。
 弱いよりも確かに強い方がいいと誰しも思う。しかし、その強さを手に入れたことによって失ってしまうものもあるのではないだろうか。
 神様との関係において強いことはいいことなのだろうか。今日の礼拝のメッセージでそのことが語られた。神様との関係において一番必要で大切なことは貧しさと謙遜ではないかと言うのである。
 貧しさ。神の前に貧しくあること。神の前に豊かであるとしたら、何を神に求めるのだろうか。むしろ欠乏していて貧しい者こそが神を求めることができるし、感謝できるのではないか。
 言い換えるなら、「弱さ」と言ってもいいだろう。弱い者。神の前で何もできない者。ひたすら神から与えてもらうことしかできない者。
 反対に、豊かな者、強い者は別に神なしで神抜きでもやっていけるのだから、神を必要としない。自分の力で十分やっていけると思っているし、神に助けてもらう必要などもない。
 貧しい者および弱い者の信仰。そこに本質があるのではないかと礼拝のメッセージを聞きながら思った。
 豊かな者はお金などの財産をたっぷり持っている。強い者は、強さの種類にはいろいろあるが、強いという属性を持っている。それらはいわば武器や鎧のようなものだ。そういったものがその人を豊かにしたり強くしたりしている。
 だから、それらを一旦脇へ置く必要がある。神の前に立つ時には丸腰の状態、すなわち裸で向き合うということなのである。
 わたし自身振り返ってみると、日常はもちろんのこと、神の前に立つ時でさえも裸になることができていなかった。神をいつでも攻撃できるように武器を携え、そして自分が傷つくことのないように鎧でガチガチに完全防備する。
 考えてみるとおかしな話である。謙遜、柔和、遜り。これらに近づこうとしながら、実は神に対して本当の意味では心を許せていない。神の前であっても武器と鎧が手放せないわけだから、言うまでもなく信頼できていないのである。
 裸になることはとても勇気がいることである。現実の生活において人は皆、程度の差こそあれども武器と鎧で武装している。そして、我が身の安全を守っている。それが当たり前のことなのだ。
 だからこそ、せめて神の前では裸になる必要がある。物騒な武器と鎧をひとまず脇へと置いて、丸腰で神と向き合うのである。
 わたしの信仰は求めてはいるものの切迫感がない。追い詰められて助けを求めているわけでもない。余裕のある信仰なのである。だから、すがりつくという言葉からは遠く、余力で信仰しているに過ぎない。そして、自力を捨て切れていない。自分の力で何とかしていかなければならないとか、そういった敬虔とはほど遠い態度なのである。神が存在していることを疑うことはない。でも、どこか信じ切れていない。委ねきることができていない。どうしても自分の力にことあるごとに頼って自分の力も満更ではないと思ってしまう。
 わたしに足りないもの。それは先にみた貧しさと謙遜なのである。
 わたしは自分で言うのは何だけれど頭が悪い方ではない。どちらかと言えば冴えてる方なんじゃないかと思っている。(もちろん上には上がいるので上位の優れた人たちと比較すれば劣っているのだが)そして、ルックスも悪い方ではないと。この頭の良さとルックスの良さ。
 つまり、この二点がわたしを傲慢に思い上がらせているようなのだ。
 わたしにとってはこれらのことが生きる支えになっている。神に支えられているという実感はあるけれど、それ以上にこれらの属性をわたしは誇りとしている。生きる拠り所、土台、支えとしているのである。だから、もしこれらが失われようものなら生きていることができなくなる。知的な活動ができなくなり、容色が失われたとしたら、生きる希望が持てなくなるだろうことは明白である。
 けれどもこれらは考えてみたら、わたしの財産であることは間違いないのだが、わたしのものではない。これらは神から与えられた賜物だからである。むしろ、こうした賜物を神からお借りしてわたしは生きている。つまり、わたしは神の乞食なのである。神がいなかったら何もできない正真正銘の神の乞食なのである。
 わたしの能力などは神からの借り物であり、何一つと言えども自分のものではない。この至極当たり前のことに気付けただけでも大きい。
 だが、ここでも「メリットの問題」が顔を現してくる。つまり、自分が損得感情で信仰しているのではないかという致命的な懐疑が発生するのである。
「なぜあなたは信仰しているのですか?」という質問がなされた時、人はどう答えるのだろうか。人それぞれいろいろな回答があるだろうと思う。でも、その答えが明らかに神を利用していると思われる場合、それはどうなのか。一言で言うなら「メリットを得るための信仰」といったところだろうか。
 そもそも損得勘定のない信仰などあるのだろうか。
 逆に言うなら、デメリットしかない信仰があるのだろうか、という疑問である。信じれば信じるほど不幸になるのにそれでも信じるという人はいるのだろうか。そういう人も結局は来世での幸福を期待していたりする。信じれば信じるほど不幸になり、その結果信じた者は確実に地獄へ落ちる。それでも信じることのできる人はいるのだろうか。いるとしたらその人は一体何のために信じるのだろう。でも、それすらも不幸になることに何らかのメリットを見出しているということにならないだろうか。究極的には人間はメリットを求めて生きているものだと結論付けざるをえないのだろうか。
「メリット」という言葉の呪縛から逃れようとすればするほど、かえってこの言葉に縛り付けられていることを自覚せざるをえない。
 わたしはメリットとは関係のない信仰を持ちたい。そして、メリットとは無関係に神を信じたい。得になるから信じるとか、ならないから信じないとか、そういった不純な動機ではなく、純粋に信じることができるようになりたい。
 しかし、それは原理的にも不可能なことではないのか。どんな聖人であってもキリスト教に、すなわち信仰に何らかのメリットを見出していたのではないか。そして、神に祈りながらメリット丸出しで求めていたのではないか。
 むしろわたしたちクリスチャンは自分に正直に損得勘定を丸出しにして、「得したいから信じてます」と本当のところを暴露してしまってもいいのではないか。「わたしは信仰において何もメリットを求めていません。見返りを求めているわけがありません」などと主張する方がむしろ偽善なのではないか。神様に「よくやった」と天国でほめてほしいから頑張るでもいいのではないか。
 わたしはどこかに完全な信仰が存在するものかと思っていた。メリットを何も求めない信仰。そうした信仰があるものかと夢想していた。しかし、原理的にも無理だということが分かった今、そうした幻想から解き放たれたように思う。

 信仰はなかなか難しいと書きながら思った。先人から学びながら、ゆっくりと考えていきたい。


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