聖書を原典で読めるようになりたいとヘブライ語とギリシャ語を勉強中

 数日前からヘブライ語の勉強を毎日1時間くらいしている。もちろん日曜日はお休みにしているのだけれど、それにしても毎日1時間というのは、なかなか上達するものである。
 8月から本格的に始めたヘブライ語も5ヶ月目に突入。あと1ヶ月でもう半年になるわけだ。早い。時が流れるのは本当に早いものだと痛感せずにはいられない。
 最近、ヘブライ語が上達したものだと我ながら惚れぼれするのは、前よりもヘブライ語を読む速度が上がっているからだ。最初のころは、はっきり言うまでもなくよたよた読んでいた。一文字読むのに4、5秒かかっていたと思う。けれど、それが今ではスッと読めるのだ。もちろん、ヘブライ語の朗読CDのスピードで文字を追っていくまでには上達していない。それはネイティブレベルだ。そこまではまだ行っていない。そこまでは行っていないけれど、それでも前よりは読むスピードが上がってきていて、スッと行ける。これってすごいんじゃありません? よく己に勝てとか、自己新記録を目指せとか言うけれど、まさにわたしの場合、自己新も自己新。何せ読む速度が確実に上がってきているのだから。
 こういう経験って本当に嬉しいし励みになる。考えてみれば、みんなこうしたことを多かれ少なかれやってきたのだ。わたしは日本語のネイティブだが、それでも日本語のひらがなを初めて覚えようとした時のことを思えば、みんな最初はよたよたなのだ。よたよただったのだ。みんな、最初はよたよた。覚束ない足取りで文字を必死で読もうとする。よたよたどころか、読み間違えたりもする。それでも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが少しペースアップしたよたよたになる。そして、それからも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが二段階速度が上がったレベルになる。こうして、こうして、あきらめずに読むことを続けていくと、読もうとしなくても自動的に読めるようになる。もうそうなれば、よたよたではない。その状態になるまでには相当の年月の努力が必要だけれど、やっていけば、あきらめないで堅実に続けてさえいけば、いつかは分からないけれども、いつかはそうなるのだ。そのレベルに到達する日がやってくるのだ。
 わたしのよたよたヘブライ語が少しましなよたよたになってきた。続けることの力を知るのである。
 こうなってくるともう嬉しくて仕方がない。さらに勉強したい気持ちが湧いてくる。そして、こうした成功体験はわたしをやればできるんだと思わせてくれる。わたしも捨てたもんじゃないな。結構いけるじゃん。やればできるじゃん。
 ヘブライ語の勉強仲間のFさんに最近こんなことをわたしはTwitter上で言った。「8月頃にはFさんもわたしもヘブライ語のアレフベートをやってたじゃないですか。それを思えば今のわたしたちはものすごく成長してますよ。ものすごい成長して進歩してます。」Fさんは「そうですね。そうだったですね」と話を受けてくれた。Twitter上でヘブライ語の勉強仲間を募集したらFさんがダイレクトメールをくれたのだ。そこからわたしたちの励まし合いながらのヘブライ語の勉強が始まったのだ。ちなみに以前、ブログの記事でもふれたTさんは、と言うと、ヘブライ語の入門テキストを通読されたらしいのだが、彼には彼の方向性があるらしく、日本語訳聖書と英語と日本語の対訳の聖書をじっくり読みたいとのことで、その方向性を尊重したいとわたしは思っている。
 たしかに聖書の原典を読めるようになりたいと原典の言語を学び、それを読む方向に持って行くのも一案であるとは思う。けれども、聖書を原典で読むことだけがすべてではないのだ。人それぞれ聖書に対する姿勢や取り組み方は異なるし、実際異なっていてもいい。むしろ違うからこそ面白いとも言える。でも、わたしが思うにいずれTさんも聖書を原典で読みたい、となるんじゃないかと期待している。まぁ、彼がいつそう思うようになるかは彼と神様のみが知ることだけれど。
 人生は長い。極端な話、80代からヘブライ語を始めてもいいのだ。80歳からヘブライ語を学ぶ。いいなぁ。そう思えば、30代、40代でヘブライ語をやらなくたって別にいいじゃないか。楽しみは最後にとっておく、というイチゴのショートケーキのイチゴを最後まで残しておくような人もいることだろう。
 聖書を原典で読むこと。これはとても意義があることだとわたしは考えている。だから、ヘブライ語をやっているわけなのである。ヘブライ語をやっていて感じることは、中東の息遣いってこれなんだよなぁっていうことだ。パレスチナの乾いた砂漠の言葉のように感じるのだ。
 そういう意味ではわたしはアラビア語にも興味がある。ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、とやったら次はぜひともアラビア語を学んでみたいと思っているくらいだ。
 ヘブライ語で旧約聖書を読む。ギリシャ語で新約聖書を読む。ラテン語でウルガタ聖書を読む。そして、アラビア語でコーランを読む。あ、それから忘れてた。ドイツ語でルター訳聖書を読むんだった。それだけやれば上等だろう。文句なしだろう。
 原典を読むことはまさにその息遣いにふれることではないかと思う。おそらく日本文学の芥川とか太宰とか漱石を英訳とか外国語訳にしてしまっては、あの味わいは出てこないだろう。ましてや、詩とか短歌とか俳句となればなおさらのことである。俳句の英訳ってあるらしいんだけど、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」をフロッグ何たらにしてもきっと味わいが出ないだろうなぁ。
 まぁ、ネイティブでない人間に外国語が分かるのかという難しい問題もあることはあるけれど、それでも原典で読むことは翻訳されたものを読むよりも、その原典に近付けるだろうことは確実ではないかとわたしは思う。たとえばシェークスピアを理解したいと思ったら、それも深く理解しようと思ったら自然と英語の原典へと向かわないだろうか。それと同じように、聖書を理解しようと思ったら自ずと原典へと引き寄せられていく。わたしは原理主義者ではないけれど、原典を読むことによって聖書の息遣いを感じることができると思っている。そして、それが神へとさらに近付いていく一つの方法なのではないかと思えるのだ。もちろん聖書を読むことよりも無心に祈ることをした方がいいという信仰篤い方の御意見もあることだろう。けれど、それも一つの方法ながら、聖書の息遣いを感じることが出来るように原典に取り組むのもいいのではないかと思うのだ。
 聖書がどこまで神の言葉か、というのは難しい問いでキリスト教陣営においても二つに分かれてしまっているくらいなのだから、拙速に回答を出すことはできない。でも、わたしは少なくとも聖霊の働きが聖書には及ぼされていると信じている。逐語霊感説まではいかなくても、少なくとも聖書には聖霊の働きが豊かに注がれている。それを信じる時、その聖霊を受けて書かれたものは、その書かれた言語の形式によってまとめられているのだから、少なくともその形式について学ぶことは意義のあることだと思えるのである。
 そういうわけで、やる気満々のわたしは何とヘブライ語だけではなくてギリシャ語もやることに決めたのである。二兎追う者は一兎も得ず? いやいや、追って得てみせますよ。星さん、二兎追いながら十兎くらい捕まえてみせますよ。豪語した。豪語してしまった。前言撤回するなら今のうち、とばかりに撤回はいたしません。(笑)
 ヘブライ語を学んで旧約聖書を原典で読む。そして!! 新約聖書を原典で読むためにギリシャ語を学ぶのだ。
 で、ギリシャ語始めたのだけれど、このギリシャ文字って数学で出てきませんでしたか? アルファ、ベータ、シータ、ガンマなどなど、出てきましたよ。たしか。それで、たしか放射線もアルファ線、ベータ線、ガンマ線とあったよね。もしかして、ギリシャって数学と縁が深かったりして。(予想)だから、数学でギリシャ文字がたくさん登場してきたんだろうなぁって思うわけ。(予想)
 未知の分野のギリシャ語。何でも語順はどうでもいいとか、よくないとか。あんまり適当なことを言うのは良くないので、ギリシャ語についてはこのあたりにしたい。
 ヘブライ語とギリシャ語。二刀流でやっていきたい。

 追伸
 注文しておいたギリシャ語の入門テキストとギリシャ語の新約聖書(原典)とそれの朗読mp3CDが先日届きました。ギリシャ語の新約聖書をパラパラ~と読んで猛烈に感動しました。この中にイエスさまのことが書いてあるんだと思うと感動せずにはいられないのです。これが原典か、と感動です。そして、朗読CDを聞いてみて、またもや感動。やりがいあります。新約聖書、3年以内に読めるようになってみせます。目標、3年です。

ヘブライ語、ぼちぼち難しくなってきましたな

 ヘブライ語。やればやるほど、先に進めば進むほど難しくなってくる。でも、これは幸せなこと。数学がだんだん難しくなっていくのと同じようなもので、高度になっていくことは自分が先に進んでいるれっきとした証拠だ。ずっと簡単なままだったらやる気しないでしょ? 難しくなっっていくから俄然やる気が出てくるのです。などと言いながらもこうも難しいとため息が出てしまう日も正直ある。ムズ! ムズムズ!!
 これだけ難しいながらも続いているのはやはり仲間がいてくれるおかげだろう。正直、日曜日を除いて毎日ヘブライ語というのはなかなか大変だったりする。どうしても人間楽な方に流れてしまいがちで、「今日はあんまりやる気しないなぁ」と思うこともしばしばなのである。けれど、仲間がいる。仲間がいて共にこのヘブライ語という大きな山を一緒に登ってくれているではないか、と思うとさぼることが後ろめたいことに感じられて、やる気がしない日であっても15分くらいはやることができるのだから仲間の力にはスゴいものがある。
 ヘブライ語の文字の読み方(発音)が一通り終わったわたしはやっと文法編に突入したのだ。突入して今までのはウォーミングアップだった、ってなことに気付かされた。やっと本番なわけだ。ここからヘブライ語の本格的な学びが始動するのだ。今までのウォーミングアップですら、「ムズい。ムズい」と音を上げそうになったわたしのことだから、これから先何度も何度も折れそうになることだろう。でも、わたしは一人じゃない。わたしには共に同じ目標を目指している尊い仲間がいるのだ。だから、大丈夫だと思う。
 何でもヘブライ語の名詞には男性名詞と女性名詞しかないらしい。じゃあ、LGBTなレインボーな人はどうしたら……、と思ってしまうわけだが、それはさておき、ヘブライ語の名詞は男か女かはっきりしているのだ。驚くべきことは名詞ならすべて、つまりは抽象的な言葉なども含めてすべてに性別があるということなのだ。男子生徒や女子生徒なら性別は明らかだろう。けれど、本とか鉛筆とか自由とか性別がどっちなのっていう言葉にも性別はある。そして、男性か女性かどちらかなのである。わたしが思うにこれだけ男性か女性かにこだわるのは、性別が重要なことだったからではないかと思う。男か女か。現代は男女平等の時代だけれど、ヘブライ語の世界は違うのだ。聖書を読んでみれば、いわゆる男性優位の世界なのは言うまでもないことだろう。
 ヘブライ語、難しくなって大変になってきたけど、同時に面白くもなってきた。一歩一歩、ヘブライ語の旧約聖書が読めるようになっている未来の自分へと近づきつつある。うれしい。8月から本格的に始めてはや3ヶ月ちょい。人間、続ければできるようになるものなんだね。しみじみそう思う。
 神学校制作のDVDを見ながらも、今わたしは聖書ヘブライ語ではなくて、現代ヘブライ語に迂回して勉強している。遠回りのようだけれど、かえってその方が近道じゃないかと思う。わたしのヘブライ語の師匠も使用したテキストを用いて勉強しているのだから、大丈夫だと思う。「現代ヘブライ語→聖書ヘブライ語」のルートで行こうかなと思っている。
 ヘブライ語の初級文法、1年か2年くらいでものにしたいな。とはいえ、なかなか思い通りに進まないのが語学だけれど、とりあえず今やっているところを確実にする。そして牛歩のごとく行く。毎日(日曜以外)続ければきっと早いうちに終わるだろう。まぁ、焦らず急がずやっていきたい。

ヘブライ語の勉強、再開しました

 ヘブライ語の勉強を昨日からまた再開した。10日間くらいさぼっていたわけだが、10日もさぼるとアレフベートをすっと読めなくなってくる。言葉というのは使っていないと忘れてしまう。
 アレフベートを一ヶ月かけてやっと全部覚えたわたしが今取り組んでいるのは、読むことだ。ヘブライ語には母音記号があって、子音のアレフベートと組み合わせて読むようになっている。言うなればローマ字みたいな感じだろうか。アレフベートの「アレフ」に母音記号「エー」がついたら「エー」と読むというように。同様にアレフベートの「メム」に母音記号「ア」がつくと「マ」になり、「ダレット」に「エ」がつくと「デ」。
 こんな調子で読んでいくわけだが、なかなかスラスラとは読めない。まぁ、最初だから仕方がないんだけど、よたよた、よたよた読んでいる。
 ヘブライ語を読んでいると、小学校時代を思い出す。もちろん小学校でヘブライ語をやるわけはないのだが、ローマ字をやったことを思い出すのだ。たしかローマ字百人一首とかやってて、宿題で全部ノートに写してきなさいってのがあった。本当あれは大変だった。アルファベットでさえもしどろもどろなのに、100首写してこいと言う。でも、やればできるもので、ひーひー言いながらも終了させることができた。今こうしてブラインドタッチでPomeraでローマ字入力で日本語を難なく打てるのも、小学校時代のあの鍛錬の賜物なのである。だから、何がどこで役立つかということはわからないものだ。そして、そのローマ字の基礎があって今のヘブライ語の勉強にもつながっている。ローマ字ができなかったらおそらくヘブライ語は無理だっただろう。
 わたしの目標としては旧約聖書をヘブライ語ですらすら読めるようになること。このためにコツコツ勉強しているのだ。だから、自分がヘブライ語の旧約聖書をすらすら読めるようになっている姿を思い浮かべるようにしている。かっこいいなぁ。憧れる。その憧れが夢物語ではなくて、一歩ずつ一歩ずつ近付いている、前進しているというのは励みになる。前にも書いたが、牛歩であっても一歩ずつ一歩ずつ進んでいけば、かなり遠くまで進むことができる。
 8月の初めのころのわたしはヘブライ語のアレフベートを3つしか言うことができなかった。それがもう9月も終わろうとしている今にはアレフベートを全部言うことができて、よたよた、よたよたながらもヘブライ語を読めるようになっているのだ。これは大きく大きく前進しているではないか。
 最近すごく語学を学ぶことにおいて刺激を受けた本があるので紹介したい。新名美次『40カ国語習得法 私はこうしてマスターした』という本である。この人は眼科医でアメリカで開業した人なのだが、何と40カ国語も操れるらしいのだ。40!? マジすか? 多くの日本人が英語で苦戦してそれすらままならないまま挫折している現実がよく見られる中で、わたしはこの著者の40カ国語に度肝を抜かれた。英語という1カ国語だけで折れているのがとてもつまらないように思えてきたのだ。世界にはたくさんの言葉があって、アクセスされるのを待っている。わたしは頑張っても生涯において40カ国語は無理だろう。でも、あきらめなければ数カ国語はものにできるんじゃないか。そんな希望がわいてきたのだった。一度しかない人生において母国語の日本語だけしかできないのってもったいない。この本を読んでいたらそんな思いがふつふつとこみ上げてきた。
 というわけでわたしの抱負をここでいくつか。志を持つことは悪いことではないからね。わたしのやりたい外国語一覧を書くとしたらこんな感じ。うーん、志高いなぁ。

 ①ヘブライ語
 旧約聖書を原典で読めるようになりたい。
 ②ギリシア語
 新約聖書を原典で読めるようになりたい。
 ③ラテン語
 ラテン語聖書とアウグスティヌスを原典で読めるようになりたい。
 ④ドイツ語
 ルター訳聖書とルターを原典で読めるようになりたい。
 ⑤英語
 英語の神学書を読めるようになりたい。
 ⑥アラビア語
 コーランを読めるようになりたい。

 またやりたいことが変わってくるかもしれないけれど今はこんな感じなのだ。6カ国語も操れる未来のわたしって本当かっこいいと思う。想像するだけでもワクワクする。それにそれだけの言葉を学ぶことによって、多くのものを得ているだろうし、人間的にも大きく成長していることだろう。
 38歳からの外国語ってなわけで、最終的にどこまで到達できるかは未定であり未知数であるけれどもやっていけば何とかなるだろうと楽観している。先のことは分からない。だからこそ、どうなるか分からないからこそ面白いのだ。ワクワクしてきた。とりあえずコツコツ、ヘブライ語頑張るぞー!!エイエイ、オー!!(古!?)

P.S  新名美次『40カ国語習得法 私はこうしてマスターした』 の新名さんが何と新たに本を出していたということに今気付いた。『50ヵ国語習得法 誰にでもできる、いまからでも間に合う』という本で何と10か国語増えとる~!! 思わずいい意味で笑ってしまった。50カ国語の新名さんの本、買ってみようかな。

興味を持っていただけましたら下の本もぜひぜひ。

未開の分野「○○○○」にチャレンジ中

 こんにちは。いかがお過ごしでしょうか?
 てなわけでわたしの最近について書きたいと思う。え? 星の話はどうでもいい? そう言いなさんな。というか、わたしの個人的な話が聞きたくてこのブログを見に来てくださっているんでしょう? え? 違う? そう言いなさんな(2回目)。星さんフリークが集まっているわけじゃなかったのか!?
 まぁ、気を取り直して、近況報告を。
 まず、ヘブライ語。「絶好調でーす!」と言いたいところなんだけれど、実はあれからさぼってしまっていて10日くらいやってないの。まじだよ。まじだよ。星さん、さぼってますよ。これだけヘブライ語をやってますアピールしておきながら、さぼっているとは何事だ。けしからん!!と鼻息を荒くして星を怒ってくださる律儀な方もいるとは思いますが、まぁ、星の勉強だからね。星がさぼろうがどうしようが星の勝手なのよね~。(←な、な、生意気ですね。)と言うのも人間的にどうかと思うので、またヘブライ語再開したいと思います。と言うのにとどめておこうかと思う。誰しも熱中する時と冷める時と様々な「時」があるのだ。あたたかく見守っていただけたらと思う。
 で、ヘブライ語さぼって何をやってたかって言うと、まず小説書いてました。3作目です。小説って本当むずいのよね~。(苦汗)こう書きたいっていうイメージが全然形にならないの。一応、書くことは書けているんだけど、何か面白くするのが難しいのよ。でも、書いている時すごく充実していてうっすら楽しいし、それが完成した時なんて「やったー!!」て感じで本当嬉しい。だから、小説また書いているわけなのです。
 そして次に、キリスト教神学の難しい本にチャレンジしております。

 

ペールマン『現代教義学総説 新版』を読んでいて、本の帯には「神学史的な背景を手厚く解説した上で現代神学と対話。原著はドイツで神学生の標準的な教科書として長く読み継がれ改訂を重ねてきた定評ある名著。」とあり、読んでるとまさに気分は日本語訳されているけれどドイツの神学生。ルンルン気分です。と言いたいものの、これがむずいのよ、本当。これ本当に日本語ですの?、てな難解な文章で時々折れそうになります。特にパソコン長時間やった後読むとさっぱり意味が取れなくてポンチ状態に。教訓。この本は頭が冴えている時に読むようにしましょう、だね。
 最後に、新しい未開の分野にチャレンジしています。問題。それは何でしょう? ヒントは生き物で動物です。
 これだけじゃあ分からないよね。第二のヒント。牛と馬が近くて、豚、鶏が遠い。
 分からない? じゃあ、さらにヒント。この生き物はは虫類です。
 イルカ? クジラ? ってそれ哺乳類じゃん。近いけど違うんだよなぁ。海の生き物ってところまでは合っているんだけど。
 じらしにじらして、正解発表。
 パンパカパンのパンパーン。
 ウミガメです。
 牛と馬は「う」で始まるのでウミガメに近くて、実はウミガメっては虫類なの。
 で、また何でウミガメ?
 もっともな疑問だ。なぜウミガメに興味を持ったかというとたまたま新聞記事にアカウミガメの記事が載っていたのだ。静岡県でアカウミガメと言ったら、御前崎(おまえざき)の地なのだ。で、その卵を海岸に産みにきたアカウミガメが過去最少らしいのだ。その記事を読んで、アカウミガメのことよく知らないよな、と興味を持ちAmazonで本を検索して探したのである。そして、買った本が菅沼『ウミガメは100キロ沖で恋をする』亀崎『ウミガメの自然誌 産卵と回遊の生物学』の2冊。

『ウミガメは100キロ沖で恋をする』を今半分くらい読み終えたところだけれど、ウミガメって面白い。何が面白いって不思議なところがおもしろい。まだウミガメについては分からないことが多いそうでまだまだ研究中とのこと。そして、何よりも菅沼さんの熱いウミガメへの情熱がビンビン本から伝わってくるのだ。ウミガメについて今まで自分はスルーしてきたんだなって反省させられっぱなし。ウミガメって魚みたいにえら呼吸しているもんかと誤解していたけど、肺呼吸だったのだ。で、呼吸をして2~3時間潜っていられる。また、今でも捕獲制限はしているものの、小笠原へ行くとウミガメ料理が食べられるとのことで、ウミガメってどんな味がするんだろう、と可哀想な気もするものの、それでも好奇心が食べたい気持ちを加速させる。死ぬまでに一度食べてみたいなと思った。『ウミガメの自然誌 産卵と回遊の生物学』についてはパラパラーっとめくっただけだけれど、ウミガメについて体系的に書かれている印象を受けた。この本、高いのよ。5千円もするのです。いやぁ、星さんはお金ないけど奮発して買いましたよ。この2冊でざっくりしたところは十分知ることができると思うので、気長に読んでいきたいと新しい分野に新しい心意気を燃やしている星なのであった。  それから、それから、引照つき聖書(新共同訳 旧約続編つき)もぼちぼち読んでおります。

 いやぁ~引照つきって骨が折れますなぁ。これは終わらないわ。
 てなわけでわたしの拙い(?)近況報告、最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
 ウミガメは本当面白いからおすすめです。いいですよ、ウミガメ。最高!!
 読了感謝。

 下の本、面白そうだと思いましたらぜひぜひ。

ヘブライ語、挫折からの再スタート

 8月から始めたヘブライ語が飽きっぽいわたしにしては珍しく、今もぼちぼち続けることができている。
 わたしには以前、二回ほど挑戦してみたものの挫折したという苦い経験がある。その経験をバネにして、と言うのも何だが、折れることなくやってこれているというのは、本当に我ながらすごいことだと思う。
 前回、前々回の挑戦時までにわたしが到達できたのはヘブライ語のアレフベート3個を覚えるところまでだった。アレフ、ベート、ギメルまで覚えてそれからは勉強から疎遠になっていき自然消滅という按配だったのだ。
 だから、だから、今回はすごいのだ。何と今回はアレフベートを22個全部覚えて、それから語末形もほぼ覚えて、それより先に進んで読み方まで来たのだ。子音としてのアレフベートの読み方と、母音記号とその規則。もうそれだけやれば何とあのヘブライ語の意味はわからないものの、一応夢にまで見た音読ができるようになるのだ。やったよ。やったよ。星さん、猛烈に興奮しております。
 すべてはいい学習教材に出会えたことにあると言っても過言ではない。前回の記事でも書いたけれど、神学校がDVDを販売していて、それを買ったのが良かった。
 DVDの内容は、と言うと、神学校の先生が黒板とチョークを使って授業をしてくれて、その様子が収録されている。先生が時々してくれる脱線話が学校で授業を受けている感が出て、とてもいい。しかも、その脱線話のような話がしっかりと学習内容とリンクしているところはさすがである。(一部、本当に関係のないネクタイとかスーツの話を冒頭で少しばかりすることもあるが、これも御愛嬌。)自分でテキストを読んでも分からなかったり、分かりにくかったりするようなところも噛み砕いてわかりやすく説明してくれる。
 て、星さん、DVDの宣伝ですか? と思われた方も多いことだろう。宣伝です。これは宣伝なんです。と言えども、わたしはこの神学校と提携してDVDを販売することに協力しているわけではない。このDVDが何セット売れようともわたしには1円も入らないのである。それでも、それでもいいものだから、すすめたい。そんなわけで善意のみでボランティアの精神でこのDVDをすすめているのである。よく自分は使っていないのに提携しているからという理由で、商品をすすめる人がいるけど、そういうのとは違うからね。断固として言います。このDVDがどれだけたくさん売れようとも星には1円たりとも入りません。そして、このDVDはわたしが実際に使用しているものです。
 ところで、今日Twitterでこんなやり取りがあった。わたしが自らの野望をツイートしたら、Tさんが「井筒俊彦の二代目になれそうですね。」みたいなことを言うのだ。わたしがどんなことをツイートしたかと言うと、死ぬまでにヘブライ語で旧約聖書を、ギリシア語で新約聖書を、ギリシア語で七十人訳聖書を、ドイツ語でルター訳聖書を、ラテン語でウルガタ聖書を読みたい。一つに10年ずつかかるとして50年かなぁ、みたいなことをである。壮大な夢である。おそらく叶わないうちにわたしは生涯を終えることだろう。でも、夢は夢として語るのは無料だし自由だから語ったわけなのだ。何よりも志は大きく持った方がいいじゃないか。出任せとして言ったとしても、もしかしたら本当に叶ってしまうかもしれないし、それはやってみなければ分からない。
 大言壮語しているわたしだが、そのためのまずは第一歩としてのヘブライ語の学びなのである。まずは一歩から。一歩まずは踏み出してみなければゴールへは永遠にたどり着かないからだ。
 わたしが思い描く大きすぎる夢は10分の1も達成できないかもしれない。もしかしたら100分の1も無理なのかもしれない。でも、いい。その過程が大事。その過程を通して成長することができたらそれで良しなのだ。もちろん、目標を達成できるにこしたことはないけれど、その目標に向かって努力して向かおうとしたことだけでも評価に値すると思うのだ。
 無駄にはならない。決してやろうと思った気持ちや実際にやってみて動いてみたことは無駄にならない。たとえうまくいかなかったとしても、その経験はかけがえのないもの。純粋に尊くかけがえのないものであることは確かである。
 また、昔、完全にさじを投げた大嫌いだった英語の勉強も再開した。1日あたり30分くらいずつ無理のない範囲で取り組んでいるのだが、ヘブライ語という未知の言語に取り組んでいるせいか、英語が何とかなりそうな気がしてきたのである。英語で難しいところが出てきても、前のようにすぐには放り出さなくなった。今は分からないかもしれない。でも、いつかは分かるようになる。できるようになる、と語学を学ぶ上での我慢強さというか、忍耐力のようなものがわたしの中にヘブライ語の学びを通して育ってきているようなのだ。だから、ヘブライ語を学んできたことが英語の勉強に役立つというような、以外な効果が現れることもあったりするのである。もしかしたらだが、言葉というものに対して以前よりも鋭くなってきているのかもしれないと思ってみたりする。少なくとも自分ができないことに耐える力が語学の学びにおいては要求されるということはひしひしと感じている。忍耐と継続。コツコツ、コツコツとやっていくのである。
 ヘブライ語、この調子で続けていけたらと思う。ヘブライ語に興味があるけれどいい教材が見つからないという方はぜひDVDの購入のご検討を。

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